違う見方

誰でもできるけど、自分にしかできないのが、判断するということ! 情報過多な現代は偏り(バイアス)も強いので思わぬ方向にずれていくこともある。そんなズレを修正したりブレーキをかけるために少し違う目線を持ってみたいという備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『所与(性)』って知ってる?

両極端な二つの層が日本には存在している。

 

多くの人は、そんなこと今更言われなくても知っていると思っているだろう。

 

私も、そうだったが、たまたま読んだ本や記事で、上手く表現できなかった二つの存在が、なんとなくわかるような気がしてきた。

 

先ずは、そのうちの一つは次の記事が参考になった。

 

 

 

リンク先の記事には、こう書いてある。

 

そもそも、世間というのは、「所与性(しょよせい)」というものを一番大切にします。それは、「続いていることを変化させない。今あることを受け入れる」という原則です。

 

真夏の高校野球が、どんなに高校生が熱中症になっても続くのは、「所与性」にみんな従っているからです。先月、この連載で書いたように、アジア・太平洋戦争中、効果のなくなった特攻攻撃を続けたのも「所与性」です。

 

特に、日本人は続いていることを中止したり、変革したりすることを嫌います。それは、何も変えなくても、まがりなりにも共同体が続いてきたからです。

 

 

この話を読んだときの私の気持ちを代弁してるのが次のツイートだ。

 

 

表現するためには、ふさわしい言葉を持ってないと、上手に表現できないし、表現しても伝わらないが、ふさわしい言葉を持つと、途端にわかりやすくなる。

 

表現する言葉を持つというのは、コミュニケーションにおいて最も大切だろうし、それは単に口が上手いとは質的に違うだろうが、似ている面もありそうだ。

 

冒頭で、二つの極端な層があると書いたが、一つが『所与性』を大事にする人たちだ。

 

だとすると、『所与』の反対語が、もう一つの層を示すキーワードになりそうだが、いくら調べても(チョロチョロ検索するだけだが)出てこない。

 

どうやら、『所与』という概念には明確な対義語が無いようなので、こういう場合は、反対の概念を定義することから始める必要がある。

 

 

 

『所与』とは、"前提として与えられている"、という意味があるようだ

 

 

だとすると、反対語は、その前提を覆したり、奪ったりという、意味が出てきて、且つそこに理不尽さも漂うような気がする。

 

これは、あくまでも、『所与』の側からの見え方になるだろうが。

 

では、その反対語の側から見ると、『所与』に拘る姿勢は、変化を受け入れない老害のようなものと言えそうだ。

 

『所与』に拘る人たちは、『所与』が変化することに理不尽さを感じるだろうが、従いたくない『所与』を押し付けられる側にとっては、『所与』が理不尽なのだ。

 

この『所与』を巡る対立が、日本ではとても大きな課題であると感じられるし、ガラパゴスなものだと感じられる。

 

一見、「都会VS地方(田舎)」や「若者VS老人」や「金持ちVS貧乏」のような対立や競合に見えていることも、実は『所与』を巡る争いなのかもしれない。

 

 

『所与』に拘る人々の行動は、それを守るために、しがみ付くだけの行動になるが、『所与』を壊したい人々は、さまざまな動きを取る。

 

決して容認できないが、手を替え品を替え起こる詐欺の数々も、『所与』を壊そうとする動きに見えないこともない。

 

詐欺も明らかな犯罪からマイルドなものまでさまざまだ。

 

 

『所与』を壊そうとする勢力が拠り所にするキーワードの一つが『共感』だろう。

 

共感にもピンからキリまであるが、SNSでの"いいね"やフォロワーの数に拘るというのは、古臭い『所与』への抵抗として始まったのかもしれない。

 

 

『所与』への抵抗勢力とは?、と考えていたら思い出した本がある。

 

 

 

 

 

3年前の本なのだが読み返すとおもしろい。

 

今の私は、『所与』とも対比させているので余計におもしろさを感じる。

 

この本の書評ブログがうまくまとめていたので紹介。

 

ホリエモンのようなカリスマになるには?(カリスマ論/岡田斗司夫)

 

『所与』を壊そうとすると、周りの目には"出る杭"に映るが、恐れる必要はないようだ。

 

 

 

私は、『所与』が壊れることを望むタイプだと自覚しているが、影響を受け与えるという意味では、あまり出しゃばったことはしたくないという思いがある。

 

私が『所与』にありがたみを感じないのは、そもそも恩恵を受けてるという実感が無いからかもしれない。

 

この『所与』に対する反応は、価値観が自分と違い過ぎると相手に対して不快感しか感じないだろうから、人物判断の良い目安になる気がするので、そういうネタになりそうな時事や芸能やスポーツの話題を準備しておくと良いだろう。

 

 

『所与』の是非というか好き嫌いに似ているのが、自分のことだけ考える、と、他人のことも考える、の使い分けだ。

 

例えば、同じボランティアでも極端な2種類があることを、多くの日本人がこの夏知ることになった。

 

2020年の東京オリンピックのために、無償でかつ手弁当でボランティアをしなさいと訴える日本政府の、自分のことしか考えてない様と、一躍勇名を馳せたスーパーボランティアの尾畠春夫さんのように、困ってる人を助けることが自分の役目だと、喜んで無償かつ手弁当で命じられるわけでもなく行われる様の、2種類だ。

 

極端に違うように見える日本政府と尾畠さんのボランティアに対する姿勢だが、実は根は同じだ。

 

 

 

日本政府のボランティアに対する考え方は、『所与性』が強いと感じられる。

 

『所与性』が強いとどうなるのか?

 

 

冒頭に引用した鴻上尚史さんの質問者への回答が参考になりそうだ。

 

これを悲劇と言わずして、何が悲劇かと思います。けれど、この悲劇は、20年・30年前に避けることができたのです。ただ、世間に従ったことで起こってしまったのです。

 

農家の長男さん。どうか、あなたの未来のために、今、しんどいですが、動き出して下さい。心から応援します。