ジャニー喜多川の性加害に関する記者会見で、会見の本筋とは関係ないところで『なるほど』と思うことがあった。
わたしが惹かれたのは『所与の前提』という表現。
所与(性)という表現は字面的には決して難しくはないが、意味や使い方はというと意外と難しい。
わたしが所与という表現を意識したのは2018年の鴻上尚史さんの記事を読んでから。
世間体を一番大切にしている人達は、変化を嫌います。
そもそも、世間というのは、「所与性(しょよせい)」というものを一番大切にします。それは、「続いていることを変化させない。今あることを受け入れる」という原則です。
真夏の高校野球が、どんなに高校生が熱中症になっても続くのは、「所与性」にみんな従っているからです。先月、この連載で書いたように、アジア・太平洋戦争中、効果のなくなった特攻攻撃を続けたのも「所与性」です。
特に、日本人は続いていることを中止したり、変革したりすることを嫌います。それは、何も変えなくても、まがりなりにも共同体が続いてきたからです。
鬱の妹を隠そうとする田舎の家族… 鴻上尚史が訴える30年後の悲劇 鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい『世間』を楽に生きる処方箋 2018/09/04
所与は英語で言うとgiven。
Givenにはさまざまなものがある。
生まれながらにgivenされた環境や能力、環境には人間関係も含まれる。
生まれながらのgivenも時間の経過で変化が生じると、それは経験や体験という固有のものになり、他人との共通性がますます薄らいでいく。
日本で生きてる日本人にとっての共通の所与とは法律や道徳やそれによって維持される秩序かもしれないが、環境が違うとその所与性は薄くなり、別の土俵で起きてる出来事になる。
冒頭で引用した弁護士の『ジャニー喜多川氏の性暴力があったことは所与の前提として…』と言う発言は、性暴力は間違いなくあったということを前提にしてることになり、かなり強い非難になっているのだ。
所与の前提とは、通常は『そんなこと言ったってしょうがないだろう』ということで議論の対象にはなりにくい。
現代人はきっと昔の人よりもいろんなことを考えているだろうが、所与の前提に関してはアンタッチャブルという人が多いから議論が深まらないのだ。
現代人の悪い癖。