ちょっとした一言が、気分を良くしたり、気分を害したりし、気分を害するキッカケとなった"言われた一言"がずっと気になってしまうことがある。
気分を害するような一言とは大きく分ければ二種あり、全く予期してないような事を指摘されたような場合と、なんとなく分かっていることを改めて指摘されるという場合があるような気がする。
昨日、母との会話の中で、「だいたい、あなたは人の話を全部聞かずに、途中で遮ってワーワーまくしたてる」と言われた。
この一言がキッカケでこのエントリーを書いている。
母に同じことを言われたのは何度もあり、学生の頃から言われている。
私にとって、母とのやり取りはまどろっこしく感じることが多く、イライラする事も多く先読みしてしまうので、指摘されたようなことはどこかで自覚していた。
今回の指摘で初めて感じたのが、私はテンポ良く話してるつもりのことばのやりとりに、母はストレスがあるんだなということだ。
年寄りが、オレオレ詐欺に引っかかったり、優しく接してくれる訪問販売業者に騙されやすい理由の一端を垣間見るような思いがしたと同時に、なぜ私は母の話をまどろっこしく感じ途中で遮るのだろうかと考えてみた。
改めて、自分のことをグラフにしてみた。
意識や感情の向かう方向を縦軸と横軸に設定している。
中心は、今の自分だ。
今回指摘された一言の元になった母との会話は、右下に該当するものだった。
私は、興味や関心があることに関しては早口になるし、喋り過ぎる傾向がある。
ゆっくり話を聞いてる時は、たいてい話題に興味がない(興味があるフリはしてるつもりだが)。
仕事面では、商品に興味や関心が持てないことはあっても、客とのコミュニケーションに興味や関心を移すことで、仕事はポジティブに取り組むようにしている。
今回、改めて自分中心にいろいろ考えていて、多様化してると言われる世の中だが、私にとっては『論外』の領域がどんどん広がっているように感じられる。
おそらく、世間の多くの方にこの図のような捉え方は当てはまるのではと思っている。
これまでのところ、私は『論外』は避けて生きることができている。
過去には、ブラック的なことに従事することもあったが、興味や関心をシフトさせ自分を保っていた。
世間で、ブラックに苦しんでいる人々には、関心や興味をシフトさせ『論外』の領域から抜け出て頂きたいと願うが、価値観の多様化は決して選択肢の多様化と同じではないなと感じた。
私は、結構言われた一言を気にするタイプなのだ。
私は、『論外』の領域では生きていけない!