多くの人、ほとんど全ての人と言って良いだろうが、自分自身が基準で世の中や世間を見てるだろう。
わたしもそんな一人だ。
そして、そんな自分を普通だと思っているだろう。
だから、何かの拍子に世間の結構な数の人たちが自分と考えや行動が全く違うと新鮮な驚きを感じるとともに、自分を普通だと思い込むととんでもないことになるなと恐ろしさも感じる。
こんな話があった。
これは本当です。私の周りの若い女の子もみんなこの事件を知らない、ましてや逮捕直前に上からの命令で中止になったことなど全然知らない。バイキングで私の周りのオセロ松嶋尚美もおぎやはぎの小木も知らなかった。 https://t.co/9JSkxMrNN9
— ラサール石井 (@lasar141) 2019年12月19日
このような状況を情弱と少し前だったら笑っていたが、そういう単純な話ではないのかもしれない。
興味や関心の守備範囲が全く違う人が身近にたくさんいるのだ。
同じ日本語で話をしていても、通じる話と通じない話があることをこれまでは、頭の良し悪し、知識のある無し、の差の結果だと捉えていたが、むしろ興味や関心のある無しの違いや差になっているのかもしれない。
興味や関心は、自分に関係あると思えれば惹きつけられるが、自分に関係ないと思えば見たり聞いたりしたことは記憶にすら残らないということだろう。
そう考えるとおもしろいことに気付く。
記憶から消したいことや、知りたくもないし興味も関心も無いと思っているのに記憶からいつまでも消えないものがあるのはなぜだろうかということだが、これは深層心理のレベルでは大いに興味や関心があるからなのだろうということに気付く。
つまり、自分が自分を十分に理解できてないことが決して珍しくないという現実が身近にあるのだ。
現代人に必須の能力の一つとして上げられることが多いマルチタスク能力は、同時に複数の業務を処理する能力だが、この能力は実はシングルタスクの切り替え能力と言った方が正解に近いらしい。
人間は同時に複数のことを処理できないのに、複数のことを処理しようと意識するために機能不全に陥ることは珍しくない。
できないことをやろうとしてもできないのは当然だとしても、周りを見るとできてるように見える人がいるから厄介だ。
これも、自分で自分が十分に理解できてないことを示す事例になるかもしれない。
このように人間は同時に複数のことは処理できないのかもしれないが、処理したい案件や課題を同時に複数抱えていることはよくある。
課題や案件が複数あるということは、興味や関心の対象が複数あるということでもある。
しかし、この興味や関心の対象が複数あることすら怪しくなっているのが現代だ。
政治の世界で使われる用語にシングルイシュー(single issue)、日本ではワンイシュー(one issue)と呼ばれることもある、がある。
重要な課題がたくさんあっても、表舞台で重要視するのは一つの課題についてだけで他は興味ないかの如く振る舞うことを意味し、21世紀に入ると日本だけでなく世界でもシングルイシューは非難されながらも、それ以上に数の上では支持される傾向が強くなっている。
大前研一さんは今週のメールマガジン(KON809)の中でシングルイシューについて次のように言っている。
本来政治的な問題の大半は
総合的な判断が必要になってくるのですが、
ある特定の問題に関して強く言い切ったほうが
国民に理解されやすく、
またその主張が通ってしまうのです。
しかし、それらは本質的な問題を
解決するものではありませんし、
さらにはスローガンを掲げるのみで、
何も実行に移されないことも多くあります。
マルチな才能などと持て囃される『マルチ』は絵に描いた餅だったのだろうか?
多くの現代人の興味や関心はシングル化してるのかもしれない。
興味や関心を広く持つよりも、ごく狭い範囲のことにだけ反応してるのかもしれない。
誰もが知ってると思っている出来事のことをまるで知らない人が少なくなく、そんなことで怒らなくてもいいだろうということで怒る人が多いことは、守備範囲や許容範囲が狭くなっていることを示していて、一つのことしか処理できない人が増えてることを示していると思えば納得できる気がする。
そうすると悩ましいのは『マルチ』は、こだわった方が良いのか、こだわらない方が良いのかだ。
答えは不明だが、『マルチ』に対する意識は人物判断や相性判断には使えそうだと感じてる。