さて、問題です。
次のツイートの内容は正しいでしょうか?
嫌なことをされたら、我慢してはいけない。
— アドラー心理学サロン (@AdlerSalon) December 19, 2018
あなたに後ろめたいことが無いなら、堂々と「やめて下さい」と伝えましょう。
立場上、難しいなら周りを頼ってもいいです。
言葉にしないと相手は分からない。この先ずっと我慢することになる。
自分を犠牲にしてはいけません。https://t.co/tFeKnq02VC
答えそのものに意味があるのではなく、その答えに至る背景(考え方の前提)の違いが答えに現れるのだ。
世の中には正しいようで間違っていたり、間違っているようで正しいことがあったりする。
それと似てることを正月の漫才に感じた。
皆が感じてるのか、それとも私だけなのかを知りたくて検索すると、これと似てるかもという記事があった。
たけし語る「漫才ブーム来ない」ワケ 賞レース審査員やらない理由は…
さらに「オイラはうまくなかったけど、ネタが新鮮だった」としつつ、最近の漫才は完成品で、冒頭からネタに入ってしまうとし「味がないんだよね」とも話した。
中川家、サンドウィッチマン、博多華丸・大吉やナイツの名前を挙げて「老舗のどら焼き、餅屋という感じ」とし、現在の若手が「新しい、当たってるケーキ屋」と例えた、たけし。MCの笑福亭鶴瓶(67)から賞レースの審査員はやってないのかと尋ねられると「やってない。だって、オイラよりうまいんだもん。俺よりうまいやつの審査はできないから」と説明していた。
私が感じた気持ちは、たけしが言ってる老舗のどら焼きや餅屋ですら「新しい、当たってるケーキ屋」的になり始めてるなというものに近いかもしれない。
日本には“空気を読む”という文化(?)があるが、これは以心伝心のように、言葉にしなくても伝わると言うことだ。
この“空気を読む”のように言葉に頼らなくてもコミュニケーションできることは“ハイコンテクスト”と呼ばれ、日本人は世界で最もハイコンテクストだと言われてる。
これに対し、“ローコンテクスト”は常に説明が必要になる。
ビジネスで展開されるプレゼンテーションはローコンテクストな産物だ。
漫才が、ハイコンテクストからローコンテクストへシフトしている。
日本文化のローコンテクスト化が進み始めたことは、ハイコンテクストが許容していた「説明しなくても分かる」感覚が減り、「説明しないと分からない」感覚が増えているのだ。
漫才に関しては、このシフトはネタの高度化に繋がってるが、同時に洗練を減少させ野暮を増してるように感じる。
このシフトは、実生活の場ではブラックを許容しないという良い変化も生んでいる。
グローバル化は欧米型のローコンテクスト文化が中心なので、日本でのビジネスは否応なくローコンテクスト化を強いられるようになり、現在は両方が混在してるが、決して上手に使い分けができているわけではない。
以前ブログで「学校で先生の怒る声が辛い」と書いたら激しく叩かれたのね。理解できない人が多いかもしれないけど。先生が誰かを怒ってるのを自分に怒られてるように感じたり怒る声にドキドキして苦しくなっちゃう子が実際にいるの。先生や友達の感情を読み取りすぎて苦しくなっちゃう子がいるんです。
— ままあるめりあ (@meriaheart) December 19, 2018
もともとハイコンテクストな日本や日本語には言わなくても分かるという良いこともたくさんあったはずだ。
しかし、ローコンテクスト文化がビジネス分野で当たり前になると、良かれと忖度したことが、「勝手に判断するな」と言われ、いちいち確認すると「そんなことも分からないのか」と言われたりするすることが起きる。
厄介なのは、ハイコンテクストやローコンテクストという違いを理解せずに、都合よくつまみ食いするからコミュニケーションが壊れる事にある。
図の引用はこのサイトからhttps://logmi.jp/business/articles/320445
あの人は才能あるから人間性あれだけど仕方ないよ、とか知らない。あそこと組むと世の中への見え方として全然違うから多少面倒くさいけど仕方ないよ、とか知らない。もう仕方なさには散々付き合ってきた。来年は才能あるとか偉いとか儲かるとかじゃなく、優しいとか気持ちいいとか楽しいを大切にしたい pic.twitter.com/9KfTpUFGfb
— 燃え殻 (@Pirate_Radio_) December 20, 2018
感覚を批判しても頑なになるばかり。いくら相手の為に正しい理論を述べても聞く耳はない。福祉の番組で聞いた言葉、相手の靴を履いて言葉を掛けよう。立場感情を理解しつつ解決を考える。相手が大切な人であるなら。どうでもいい人なら間違いを指摘して終わり。冷たいくらいで丁度いい。反省を込めて。
— ももちみわこ (@momochimiwako) September 27, 2012
日本人は(日本語では)共感と同情を明確に区別しない。
実際には、同情に過ぎない気持ちを共感だと勘違いするケースが非常に多い。
募金を素通りするのは、同情はできても共感できてないから、同情すらしてないケースもあるだろう。
だが、同情と共感の区別が付いてないと、素通りする際にストレスを感じることがある。
同情を共感だと思い込んでる場合に、共感を感じてるのに素通りするということが罪悪感や自己嫌悪を感じさせるからだ。
これは、無意識のうちに『共感>同情』だと感じているからだ。
共感とは、「相手の靴を履くから分かる気持ち」と言われる。
相手の靴を履いて考えてみる
Put yourself in their shoes
「相手の立場に立つ」と似てるがひと味違いそうだ。
同情は相手の靴を履かなくても分かる気持ち。
共感は自分事、同情は他人事。
どんなに相手の気持ちを感じることができたとしても、同じ体験をしてない限り“あなたの気持ちがわかります”という言葉は安易に使わないことをお勧めします
とは、日本コミュニケーショントレーナー協会の椎名規夫氏のことば。
正月の漫才を見ながら思ったことがキッカケで書いたエントリーだが、実は単に私の老化が進んでいるだけかもとも思っている。