他人と共有しあえない悩みというのがある。
病気のように深刻な悩みはその深刻さは同情はされても真に共有されることは不可能だ。
一般的にコンプレックスと呼ばれることは悩んでる人には深刻でも、他人と思いを共有することが難しく、心や気の持ちようでどうにでもなるという扱いを受けることが多いので、相談相手がいないということで悩む人は沢山いる。
気持ちの問題だけならば、悩みを口に出して相談できるというだけで、悩みが悩みでなくなる場合もあるが、悩み事を解決すべき問題点だと捉える場合には、解決するまでは悩み事のままになる。
相談できない悩みを抱えた場合の、相談できない相手とは、家族や友人や親しい知人などリアルな関係を築いてる人が多い。
知り合いには知られたくない悩みを抱えた場合の相談相手には、無関係な人を選ぶことは昔から多い。
新聞雑誌の相談投書コーナーやテレビやラジオでの人生相談は、相談する人だけでなく読者や視聴者の興味を引くネタでもあるのは、ゲスの勘ぐりを満たすとともに明日は我が身の擬似体験でもあるからだ。
他人の悩みに対して感情移入できる場合は強く共感してるだろうし、その悩みを理解できない場合は共感の度合いが弱いはず。
いづれにしても悩み事の相談が発生した場合、共感のグラデーションが重要になる。
GoogleTrendsで見ると共感は2004年以降着実に増加傾向にあるワードだと言えそうだ。
共感の強弱のグラデーションは、思いや感情の共有に大きな影響を与える。
共有もまた最近のキーワードとして取り上げられることが多くシェアと呼ばれることも多い。
先日、ブラックはやりがい搾取を狙っていると書いた。
やりがいというのは言語明瞭なのに意味不明なことばで誤解やすれ違いがあっても共感されやすいので共有されやすいという不都合が特徴。
悩みや問題や課題を抱えた場合に、真正面から悩みや問題や課題を捉えて解決しようとすれば、ほとんどの場合極めて個人的な自分ごとになる。
にも関わらず、悩みや課題や問題の周りには、共感や共有がどこからともなく忍び寄ってくる。
コロナ禍での自粛や行動制限が起きたことで共感や共有の『共』が儚く脆いものだと露呈した。
次のツイートはコロナとは関係なさそうだが共感や思いの共有の反対語は平等や対等ではと思わせてくれる話で、連ツイが続くが読む価値がある。
北欧出身で日本が大好きな友人。必死に日本語を学んで大手企業に就職したものの、「〇〇さん、喉が渇いたね」という上司の言葉に「そうですね」と返して叱責された。別の日には「今日は暑いね」と言われ「本当ですね」。上司が望む“正解”は、黙ってお茶を汲み、エアコンの温度を下げることだったのだ。
— 岩澤 直美 / Naomi Iwazawa (@naomoony) 2020年6月19日
続くツイートにはついに退社に至ったということが書いてあり、上司の意図が分かってそれを理解したからこそのストレスのせいだろうと思える。
上司の意図を理解できたからこそと考えれば共感が成立したようにも思えるが、退社に至ったことから共感を拒否したとも言える。
共感にしても共有にしても、日本語で『共』と表記されると、そこに同調圧力や忖度がちらつきだす。
Withコロナで、共感や共有がどのように変化していくのかは見ものだと感じる。