違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『集める(集まる)』の対義は『分散』

コロナでテレワークが広がり始めると、やっぱり人が集まれるオフィスがあった方が便利だという価値観も根強いと再確認できるようになる。

 

そうは言ってもコロナ前のように大勢が一堂に会するのもちょっとどうかと疑問を感じるようになり、支店や支社とは違うサテライトオフィスという概念が急浮上している。

 

そういえば、最近の時代のキーワードの一つに分散化というのがあるが、コロナで仕方なくとはいえ、分散が浸透する気配に思えなくもない。

 

個人的には、GAFAの台頭が、中央集権に対する分散化だと取り上げられたのが始まりのようなイメージを持っている。

 

ビジネスの成功や儲けを意識すると、人やお金を集めることを考え、それを追求するようになる、人間はそれを繰り返してきた。

 

構成する集団や組織が大きければ大きいほど強く、そういうところでは自然と商品もサービスも充実し、儲けも付いてくる、というよりも独り占めに近くなる。

 

この構造は、戦争やスポーツにも基本的な傾向としては当てはまる。

 

趣味の世界でも、趣味として楽しむことを求めてるはずなのに、序列として上位に位置する人は、趣味の道具のコレクターとして評価される人が多い。

 

アウトプットとしての作品にこだわっているつもりでも、気持ちは弘法筆を選ばずの気持ちで臨んでいても、代表作が一つだけではすぐに忘れ去られてしまうし、道具論のリニューアルに勤しんでる方が世間の需要は高かったりする。

 

人でもモノでも、もちろんお金でも、たくさん集めた人や、たくさん集まる場が、高い評価だけでなく実利を独占している。

 

SNSで、フォロワーの数を増やすことや、いいね等の反応を多く求めることに世間が躍起になるのは、集めるという行為には中毒性があることを示していると感じられる。

 

 

わたしは、集めることに躍起になる流れからは離れていたいとは思うタイプだが、誰もいないところで一人で過ごしたいとは思っていない。

 

どのレベルが自分にちょうど良いのだろうかと考えてみるが、これが皆目分からない。

 

よくよく考えると、勝負しても勝てっこない分野に興味がないだけにも思える、ただそこから逃げてるだけにも思える。

 

自分が勝てる土俵を探しているだけのようにも感じられるが、それを自分の世界にこだわっていると言ってるだけのようにも感じられる。

 

 

 

コロナがキッカケで、大勢の社員や大きなオフィスビルを抱えたり所有することがリスクとして顕在化してる。

 

不動産投資や都市開発が、都市の人口集中の背景にはあったはずだが、分散化を前提とした投資や開発とはどうなるのだろうか?

 

考えてみようとするが、それは地方への集中化のイメージにしかならない。

 

 

人間以外の哺乳類は、種ごとに集団や群れのサイズがほぼ決まっていると言われる。

 

人間だけが、集団の最適サイズが不明な気がする。

 

 

集める(集まる)の対義が分散だという観点で自分や世間を見渡すと、新たな発見ができるかもしれない。