4月19日東京池袋で不幸な事故が発生。
東京・池袋で乗用車が暴走。自転車の親子などを相次いではねたあと別の車に衝突。横断歩道の歩行者を次々と巻き込みました。3歳の女の子と母親が死亡、8人がけがをしました。運転していたのは87歳の高齢者。警察の調べに「アクセルが戻らなくなった」と説明しているということです。 #nhk #NW9 pic.twitter.com/0Skdqp5tyi
— ニュースウオッチ9 (@nhk_nw9) April 19, 2019
その事故の被害遺族への取材に対して非難の声が上がっている。
池袋衝突事故 亡くなった松永さん親族ぼうぜん「だまされているような」(毎日新聞) https://t.co/vz0L8wlpAN
— ユウキ (@yuukinntama007) April 19, 2019
親族に取材に行く記者マジでクズだな
近所の住民にも取材して.....
「どんなお気持ちですか?」って聞くんだろ?サイコパスだろ。
このような突然前触れ無く発生する悲惨な事故が起きるたびに、取材を巡って繰り返される話だ。
取材する側の定番の答えは、昔から「読者の知る権利」を言い訳に使う。
しかし、取材する側が経験から得た本音では、そのような非難を受ける取材をした記事は売れるのだ。
売れるから繰り返されるし、売れる限り繰り返されるのだ。
では、なぜ突然の不幸の被害者の記事は売れるのだろうか?
それを考えてみた。
最初に、取材を非難した人達の気持ちから考えてみると、間違いなく被害者側に感情移入するから、取材を許せないのだ。
もし、被害者が自分の家族だったらと想像できるような人だからこそ許せないのだ。
そんな想像をする時、心の中では何が起きるのだろうか?
今回の池袋の事故のようなことが自分や家族に降りかかったらと想像すると、事実をありのままに受け止めきれないと感じるだろう。
心の平衡バランスを取るために、何があれば良いのかが全くわからないし、バランスが取れるようなものなど何もないと感じるからだ。
しかし、実際にはこのように感じる人よりもはるかに多くの人達が、取材された記事を読みたがるから、それが数字として現れるから取材は行われるのだ。
そして、そんな取材は道義的には責められても、法的には許容されるのだ。
道義的にも法的にも責められることをすれば支持をする人は表面的にはいなくなるだろうが、法的に許容されるとある種のバランスが生まれる。
一般的には、取材する側の倫理観やモラルの問題だと捉えられるが、実態を見ると、ビジネスとして儲かるからやっているという動機が最も強いように感じられる。
つまり、求める人がいるからで、需要があるから供給されるという単純な理屈が機能してるのだ。
不幸で「誰得?」な取材を許容するバランスの向こう側には、何があるのだろうか?
バランスという観点で恋愛を例に取ると、
【IKKOさん 心の格言】
— ハリジェンヌ (@harisienne) April 11, 2019
恋はシーソー。
⇒恋に悩んでいるときは、シーソーのバランスが崩れている証拠。どんなに好きでも「好き」を出しすぎるとパワーバランスは崩れます。お互いに好きでも崩れるもの。シーソーである以上、フラットはないの。#IKKO #心の格言 pic.twitter.com/tdR0AyX4Si
恋愛が初期の段階ではシーソーのように揺れるが、一旦決着がついて、どちらかに傾くと、別のバランスが成り立ってしまう。
お前の幸せは他人の不幸の上に成り立ってるという事を忘れるな。
— 元カノ評論家 (@motokano__fuck) April 12, 2019
人間の感情は、シーソーのようにフラフラとしたバランスの上に成り立っている、実際には恋だけではなく、全てのことに微妙なバランスの力学が働いているのだ。
そんなバランスを取るために、自分にのしかかってる重さに見合う重りを、自分勝手な理屈で作り上げる癖が人間にはある。
勝手な理屈であっても、世の中は結果オーライが通用するので、「ストレスをバネにして頑張った」と言えば賞賛されることもあるが、結果が良くない場合は、「筋違いな逆恨み」と受け取られる。
「失敗は成功の母」は、発明王エジソンのことば。
「成功から得るものはないが、失敗からは多くのものが得られる」ということばがビジネスの世界にはある。
本来の意味とは全く違うが、理不尽な取材というどう考えても失敗事例から多くのことが得られる、そのことが理不尽な取材をする側には見えてるのだ。
大衆には明確な意思がない。
自分の意思が明確ではない人は、他人と自分を比較することで、自分を評価する。
周りの人より「できたり」「持っていたり」することが確認できると、安心したり、幸せを感じたりすることができる。
インターネットの普及で、自分より幸せそうな人の姿が嫌でも目に付くようになったせいで、自分のことを不幸だと思い込む人が増えている。
ポジティブなことよりもネガティブなことの方が、強いモチベーションになることがある。
そういえばずっと握手やってて思ってたことがあって…否定的な言葉でしかその場を盛り上げられないタイプの人っているんですよねぇ。と。思い返せば自分もそうだったかも。どう喋ったらいいのかわからなくて相手にも自分にも否定的な言葉しか言葉が出てこないの。→つづく
— 指原 莉乃 (@345__chan) April 15, 2019
ネガティブなことに吸い寄せられることは、油断すれば誰にでも起こること。
他人と比較するから生まれる感情がネガティブ。
他人と比較しないで持てる感情がポジティブ。
ボーッとしてると持つ感情がネガティブ。
意識をしっかり持つ感情がポジティブ。
頑張らなくても持てるのがネガティブ感情で、頑張らないと持てないのがポジティブ感情。
しかし、真にポジティブな人は、自分が頑張ってるなどとは思っていない。
頑張ってるという自覚がある人は、ポジティブ寄りのネガティブと言えるかもしれない。
そう考えると、世間には、真にポジティブな人は少数派だと分かる。
ネガティブな人にとっては、他人の幸せは面白くないし楽しくないが、他人の不幸は大好物!
ここまでは、世間でよく言われてることだが、こういう習慣を持つ人は上の指原莉乃さんのツイートにもあるように、自分のネガティブ感情が他人だけでなく自分にも向かい出すのだ。
他人の不幸ばかりでなく
— 心理セラピスト ヤコーヒロコ (@yakohiroko) April 8, 2019
自分の不幸も蜜の味
という人は実は結構多い。
でも蜜を舐め続けて何十年か経ったところで
とんでもなくくそ不味い!
と気付いても、吐き出すのはなかなか大変なものだったりする#不幸自慢 #悲劇のヒロイン症候群
他人の不幸を詳しく知りたいと思う気持ちに気付いたら、それは危険サインだと気付いた方が良い。
私自身も気を付けなければいけないと感じている。
感じるだけでは心もとないからブログに書くことでもう少し強く戒めたい、そう思って今日のエントリーを書いた。