満足や喜びは主観的な期待に対する達成度や実現度の高さによって得られる。
達成度や実現度に対する評価は個人差が大きい。
同様に不満や失望は主観的な期待に対する達成度や実現度の低さによって得られる。
この場合も達成度や実現度に対する評価は個人差が大きい。
誰もが自分の中に持ってる主観的な期待を意識してるだろうが、当然ながら客観性は無いので他人は言動を通じて想像するしかできない。
最近では主観的な期待に容姿も重要な地位を占めるらしい、特に若い人の場合は、美容や整形という分野が脚光を浴びるはずだ。
あらゆる感情は主観的な期待がある場合に生まれるのだ。
期待のイメージはポジティブであるにも関わらずネガティブな感情も生み、むしろネガティブな感情の方が巷に溢れてるように感じられるのは、主観的な期待は裏切られる場合の方が多いからかもしれない。
主観的な期待を評価するのもまた主観しかないので、それを気の持ちよう次第だと捉えると小さなことだが、気の持ちよう次第だからこそ底なし沼だと感じると心が病んでしまう。
元は同じことが両極端化しうるのだ。
一般的には主観の対義は客観になるが、『主観的な期待』の場合の主観の対義は普遍(性)の方が近い。
自分だけの期待に対して、誰もがの期待のような。
主観的な期待がストーカーを作るのに対し、普遍な期待が推しや追っかけを作るような。
主観的な期待であるストーカーの期待は共有されるものではなく自分だけのもの、一方推しや追っかけの場合は期待の共有が可能。
他人からの評価を求めてるようでいて実際に評価を求める相手は心の中の自分自身というのが主観的な期待にはある。
病める現代人は主観的な期待をいかに満たすかを求めるようになっている、アドバイスや答えを自分の外側に求めても解決することはない。
時代が進歩すると悩みも進歩するのだ。