今日のブログを書くために改めて調べたことばがある。
『刹那』だ。
私がなんとなく理解していた意味は、『今さえ良ければ』だった。
ウィキペディアにはこう書いてあった。
刹那(せつな、Skt: क्षण kṣaṇa)とは、仏教の時間の概念の1つで、最小単位を表す。念とも。
決して『今さえ良ければ』というような意味ではないが、ごく短時間を意識したことばで、刹那主義と使われることが多い。
刹那主義は、『今さえ良ければ』に近い『その場しのぎ』や『無計画』というイメージで使われるが、本来の意味は決してそういうものでは無さそうだ。
時間という概念を持つ生き物は人間だけだと言われる。
時間という概念がなければ、存在するのは常に今だけとなる。
人間だけが、今以外に過去や未来を持っていることになる。
今だけに生きていれば、全ては流れて消えていくものとなる。
今だけでなく過去や未来もあると考えると、全ては積み上がるように蓄積されるものになる。
どちらが良いとか悪いという話ではない。
こんなことを書いているのは、息子を殺した元事務次官の事件がきっかけだ。
川崎市登戸の事件がきっかけで、元事務次官の父親は息子が同じような事件の加害者になることを恐れたことが息子を殺した動機だと報じられていた。
漠然とした将来の心配や不安を早めに刈り取ったとも思えるが、その後の報道で次に家庭内暴力があったら殺そうと決めていたという話も伝わってくると、将来の不安や心配に対処したというよりも、差し迫った自身に迫る危険への対処だったとも言える。
今と将来どちらへの懸念が大きかったのだろうか?、ということがいつの間にかわたしの関心事になっていた。
おそらく、どちらかだけが気になったのではなく両方気にしていたことは間違いないだろうが、私たちは今と未来(時には過去も)を天秤にかけて悩むことが避けられないことが増えている。
『今』しかない人間以外の生き物には起こりえないことで、人間は悩み行動している。
今の自分は過去の積み重ねの結果だと考える人は、過去に縛られる。
今の自分を変えようと考える人は、変わりたい未来の自分像を思い描くことから始まる、そんな人は未来に縛られている。
人間は、他人からは結果で評価される。
結果が良ければすべては肯定的に評価される。
結果は本人にとっても重要だが、他人の評価に比べたら複雑だ。
結果が良くても不満だったり、結果が良いだけでは喜べないということがある、そういう時は得られた結果が目指すものとは違っているからだろう。
人間は自分自身に嘘をつけないと言われるが、人間以外の生き物ほど自分自身に嘘などつかないし、そもそも嘘をつくなどあり得ないだろう。
人間が時間という概念を手に入れたのはいつだろうか?
古代エジプトで、日時計がつくられたのが1万年前で、これが人類が時間を手に入れた最初だと言われている。
今や日本人は、世界で一番時間に正確で、世界で一番時間に厳しいという称号を世界から貰うに至っているが、これこそが日本(日本人)の強みであるとともに、最大の弱点なのかもしれない。
一生懸命やったということをアピールする場合に「〇〇時間費やしました」や「苦節〇〇年」という表現が日本には多い気がする。
時間というものを考えると、時間は全ての人に平等と言われる意味が分かるが、言外にその平等な時間を使って何をやったかということも問われることが多い。
・仕事や勉強や研究をしていた
・遊んでいた
・ダラダラゴロゴロ過ごしていた
・病気やケガで動けなかった
最近は、プロセスとしての時間を評価から省略することも増えている。
結果が出るのであれば、時間をどのように過ごすかは問わないという評価法も増えてきている。
どのように時間を過ごそうとも、結局は今の使い方の積み重ねに過ぎない。
林先生が言った名言『いつやるの?』『今でしょう!』、動機はともかくこのように思え、実際に行動できることは、必然や偶然の影響を大きく受けていると思えてくる。
時間は平等だが限られたもの。
どの位限られてるかというと、人それぞれだという意味では、時間は決して平等ではない。
時間とは極めて個人的な存在で、決して他人と比較することで意味や価値が見出せるものではない。
時間との関わりを間違えると、おそらく幸せにはなれない。
幸せではないという自覚があれば、おそらく環境を変えたくなるだろう。
そんな時、知っておいて損はないことばがある。
人間が変わる方法は3つしかない。1番目は時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える。この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは『決意を新たにする』ことだ。
— 大前研一 BOT (@ohmaebot) July 29, 2011
2番目と3番目は誰でも思っているだろう。
世間ではあまり取り上げられないが、時間に対する価値観はパーソナルなものなので他人と共有できる必要はないと考えるくらいでちょうど良いかもしれない。
時間に対する価値観が明確になった次の段階で、それに相応しい場所と付き合う人を選んでいけば良い。
時間に対する自分の価値観に気付くことは、壮大な自分探しでもあるだろう、だから簡単なことではないし、生きてる途中で変化することもあるだろうが、この感覚と向き合っていれば変化が生じた時にはすぐ気付けるだろう。
分かってるようで分かってないのが、自分自身の時間に対する価値観だということをお忘れなく!