とても興味深いツイートがあった。
新聞記者の取材に関する話が展開されていて、舞台になったのは1959年の伊勢湾台風に襲われた東海地方。
至る所に死体が浮かんでいる、死体しか目に入らない現場で、目利きの記者と節穴の記者の違いが書いてある。
節穴といっても、その感覚が劣っているというわけではなく、とてつもない事態を前にすれば、少々の経験や訓練の違いなど無いに等しくなるという意味。
キーワードになるのは、『ありのままを描く』だ。
わたしが節穴と言ったのが次のツイート主のことだが、決して節穴ではない。
この会社で学んだこと①
— 抜井規泰 (@nezumi32) July 2, 2019
1995年秋 「2年生記者研修」にて 籔下彰治朗・元朝日新聞編集委員
《(前略)あなた方にはいま、自分は見たままを書けるという自信があると思います。入社以来、徹底して見たままを書けばいい、率直に書けばいいとの教育をされていると思います。》
この後に連続して26のツイートが続く長文になる。
内容に関しては、ぜひツイートを見て欲しいので触れないが、凄まじい天災だった伊勢湾台風だが、目利きの記者の目は被害は人災でもあることを見抜いていたという話が展開されている。
この話を読んですぐに思い出したのが、昨年の西日本豪雨の被災地の岡山県倉敷市の真備町の浸水被害だった。
現在ほとんどの自治体ではハザードマップが作られていて、危険な地域は水辺の近くの標高の低い地域なのだが、穏やかな日常生活の中では決して危険を感じることはない。
穏やかの時に見えている「ありのまま」と危険な時に見える「ありのまま」は、ほんのちょっとの違いが大違いとなる。
目利きの目には、「境界や境目」が見える。
明暗を分けたその境目に何があったのか、何が関係していたのか、これは危険を見抜くことなど命に関わることだけでなく、「売れる売れない」のようなことにも当てはまるはず。
ところで、目利きが本領発揮する場合に上手くタイミングをものにするということがある。
おそらく偶然であっても、タイミングをものにできた場合、その情報を世の中が求めていたと錯覚できるだろう。
2016年、週刊文春はユニクロのブラック労働を告発するために長期間のユニクロへの潜入取材を実行し、記事にして発表するタイミングを見計らっていった。
早く発表したいという思いと、ユニクロの従業員にとって最も過酷な11月の創業感謝祭まで待とうという思いが交錯していた。
そうこうしてる2016年10月に電通の高橋まつりさんの過労自殺が大々的に報道され始め、世間の過労やブラック労働への敵意が盛り上がり始めた。
目利きの行動には、隠れた真実や眠っていたタイミングを呼び覚ます力がある。
目利きが発する情報が意図とは関係なく「良いタイミング」を捉えやすいのに対し、ピントがずれた情報やフェイクニュースと言われる情報は「なんらかのタイミング」に合わせてわざと作られた情報であることが多い。
①節穴には見えない「境界や境目」を見抜き、②節穴が捉えられないタイミングを捉える、これらのことが目利き力のある人に独自の影響力を与えてきたが、現代では少し変化しているように感じられる。
現代の目利きは、節穴の目利き化に対抗するために、見抜いた「境界や境目」を巧妙に隠蔽し、タイミングを捉えさせないように腐心してるように感じられる。
スッキリ爽やかな存在だった目利きは、今やドス黒いものを腹に抱えた存在に変化しているように、今の日本で生活してると感じられる。