違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

投票に行くか行くないかは紙一重!

昨日の参院選、私は期日前投票で地元の立憲民主党候補(当選した)と山本太郎に票を投じた。

 

結果がどう出るかが非常に楽しみだったが、天気が連日全国的に良くないので、途中から投票率がどうなるかの方が興味の対象となって行った。

 

 

日本経済新聞社の21日午後8時現在の推計によると、参院選の選挙区の投票率は前回2016年の54.70%を下回り、48.11%前後となる見通しだ。50%を割り込むのは過去最低の44.52%だった1995年以来、24年ぶりとなる。

投票率の推移  日本経済新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47599250R20C19A7PP8000/

 

 

 

さて、私はほぼ選挙は欠かさずに参加しているが、今でこそ興味があるから参加してるのだが、政治に興味が出たのは仕事で政治家と接触を持ったことがキッカケで30歳頃からだ。

 

それ以前は、政治には全く興味が持てなかったしそもそも基礎知識が低かった。

 

大学時代の友人(先輩も後輩も)には政治を熱く語る者が多かったのでその政治談義に加わりたくて勉強もしたが、結局興味が持てないままだった。

 

なぜ興味が持てないかと言うと、自分とどう関わっているのかがピンと来なかったから。

 

そんな状態なのに投票は欠かさずに行っていたのは、高校時代の先生の「お前ら投票には必ず行けよ」ということばが頭にこびりついていたからだ。

 

この先生は古文の先生で、私は古文が大嫌いだったから先生のことも好きではなかったが、唯一この先生の授業を脱線して語る話だけが好きだった。

 

これまで読んでおもしろかった本の話が多かったが、そんな脱線話の一つに「お前ら投票には必ず行けよ」というのがあった。

 

その話には要となるその理由も語られているはずなのだが、その部分は全く覚えていない。

 

卒業して数年、投票日になると突然「お前ら投票には必ず行けよ」ということばが蘇って来た。

 

私が投票に行くのはそのことばから逃げるためだった。

 

行かないと罪悪感を感じるのだ。

 

別に恩師だなんて思ってもいない、むしろ高校時代にすれ違った程度にしか思っていなかった先生のことばにこんなに影響されることが不思議でしょうがない。

 

他人のことばにここまで影響を受けたことは他には無い。

 

 

この先生との出会いが無ければ投票に行かない人間になっていたかもしれないと思うと不思議でしょうがない。

 

 

他人のことばに影響を受ける場合、そこには共感や同意や啓蒙が生まれ、その前提として好意や信頼や尊敬があるような気がするが、それらと全く違うメカニズムも働くことがあると言うことなのだろう。

 

投票をしたからといって分かりやすく何かが手に入るわけではないが、確実に政治の末端に関わったという実感は得られるのは開票結果が気になることで分かる。

 

低投票率の見出しを見ると嘆かわしいと思いがちだが、自分のことを振り返ると差は紙一重だと分かる。

 

その紙一重の差は、実は自分に跳ね返って来てるのだが、その実感が乏しいのとビッグデータばかりが目に付くので「一票の重み」がますます軽く感じられてしまうのかもしれない。