違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

白でも黒でもないグレーな生き方でストレスを減らす!

コロナで出現した自粛警察やマスク警察を始めとする日常生活における監視システムの最前線で活動する人々を支えてるのは、表面的には正義感だろう。

 

しかし、その正義感は一皮剥けば、ルール(明文化されてない暗黙のものも含む)に従わない者への反発や怒りという脊髄反射だったりする。

 

コロナで顕著になったようだが、昔からの日本でのあるある話だ。

 

正義やルールに照らし合わせて、それに反する行動を取る者は、上手いこと抜け駆けしていい目にあってるように見えるから、余計に腹立たしくなるのかもしれない。

 

大抵の場合、この上手いことやってるように見える者は、圧倒的に少数派だ。

 

しかし、その存在は目立つので、これはこれでノイジーマイノリティとなる。

 

ストレスという観点で捉えると、正義を盾に攻撃されるノイジーマイノリティ側のストレスはかなり大きいはずなので、高いストレス耐性が求められる。

 

一方、正義を盾にする側は、相互の結びつきはさほど強くないので連帯が生まれにくいことで、主張が空振りに終わることが多く、そのことでストレスを受ける。

 

つまり、正義(広い意味で正しいと思えること全般を指す)を軸にして対立すると、どのような立場でもストレスが避けられないのだ。

 

 

正義とは、別の言い方をすると、白黒をはっきりさせることを望むので、白派と黒派が対立するのだ。

 

しかし、世の中のほとんどはグレーで、そのグレーの一部がたまたま白や黒になってるだけなのだ。

 

 

白と黒の関係は、正義と不義、善と悪、時には右と左のような関係になる。

 

しかし、現実の多数派はそんなにはっきり分かれるわけではないはずだ。

 

そう考えると、選挙の投票率が、選挙に関心を持ってる人がそれなりにいるはずなのに、上がらない理由がわかるような気がしてくる。

 

ちなみに、わたしが毎回投票に行くのは政治に関心があるというよりも、高校時代の先生の『絶対投票には行けよ』ということばが脳内にこびりついているからと言える。

 

 

ゴシップネタを始めとする感情を揺さぶられるニュースを知って、気がつくとストレスを抱えてる自分自身に気付くときに、このストレス背負い込む必要あるのかなと思うことが増えている。

 

中途半端に賢さを身につけると、説得やプレゼンテーションを通じて対立する相手を納得させて、白を黒に、あるいは黒を白に変えさせようと、したりされたりが増える。

 

本当の自分は実際にはグレーなのにも関わらず。

 

 

ストレスとは、矛盾があるから感じるのかもしれない。

 

矛盾の部分は、大義名分や目標や目的にも置き換え可能だろう。

 

 

黒でも白でもない、グレーな生き方を肯定すればストレスはグッと減るような気がしてくる。

 

ひとつだけ注意しなければいけないのは、グレーにするとは、自分自身を曖昧にすることではなく、自分の真の色に気づくことを意味している。