大雨と長雨による水害の被害が出ている。
その中には同程度の被害を数年前に受けた人も少なくない。
つまり、相当の覚悟と多大な負担をして生活再建を図った人が再び被害を受けているのだ。
被害には遭わなくても、大雨を目の当たりにしてる人は『明日は我が身』と感情移入するだろうが、一段落すると傍観者になりやすい。
傍観してる世間は、『床上浸水して家や家財がダメになっても命が無事ならどうとでもなる』と軽く思っているだろう。
命を重視することが悪いわけではないが、それが過ぎると大事なことを軽視することにつながりやすくなる。
命を重視するようになると、命を失うことが最もあってはいけないことになる。
そして、命を失わなければいくらでもやり直しはできると軽く考えるようになる。
果たしてそうだろうか。
最近、生き方には質があるとますます思うようになってきた。
お金持ちになって贅沢できることが質が高いという意味ではない。
生き方の質とは、自分にとっての普通がいつでもあることが重要なのだ。
つまり、生き方の質は高い低いと比較するものではなく、あるかないかが重要なのだ。
その質を奪うという意味で大きく関わるのが、絶望と恐怖だと最近思うようになってきた。
水害を含めた地震や天災など不可抗力と思えることであるだけでなく、うっかりや不注意や油断や無知から生じる自己責任的なものまでその発生理由に関係なく、生じた絶望や恐怖は生き方の質を低下させるのだ。
そう考えると、コロナの見え方も変わってくる。
コロナの怖さは死亡につながる怖さではない、後遺症を含めた自分にとっての普通が消えてしまう恐怖や絶望なのだ。
デルタ株の感染拡大で急増する米国18歳以下のコロナ陽性者。比例して子供がLong COVID = 後遺症に悩む事例も増加と新聞で報道。元気で成績優秀だった10代男子がある日、学習できなくなるという後遺症。倦怠感、頭痛、集中力の喪失、睡眠障害。「マジで恐ろしい」とウィル君https://t.co/GpvhCv74eo
— ロバート キャンベル (@rcampbelltokyo) 2021年8月8日
普通じゃなくなってしまうのは自分だけで、周りの人にはいつもと同じに見えるので共感は得にくくなる、そのことも生き方の質を低下させるのだ。
当事者が感じる絶望や恐怖は当事者しか分からない、こういうケースでは論点がすり替わって世間には伝わるような気がする。
ウイルスや自然災害などだけではなく人為的なことですら、当事者以外にはその絶望や恐怖は伝わりにくいのだ。
私が子供の頃、新聞雑誌に載った従軍経験者の体験談は、上官に暴虐な扱いを受けたとか前線で死にそうな目にあったという話が大半だった。
— Shin Hori (@ShinHori1) 2021年8月15日
従軍経験者が減ったため、最近は「愛する家族のために戦った英霊だ」というきれいごとで、実際の悲惨や暴虐はなかったことにして美化・賞賛する者が目立つようだ
自宅がわずか数年のうちに二度も床上浸水の被害にあった方のツイート。
ありがとうございます。命あっての物種とはいいますが、命だけあってもどうなんだよ、と投げやりな気分になる自分もおります。本当にしんどいですね。
— Shoko Ogushi (@vostokintheair) 2021年8月14日
当事者しか感じない絶望や恐怖があることを忘れてはいけない。