違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

水害とコロナの共通点

大雨と長雨による水害の被害が出ている。

 

その中には同程度の被害を数年前に受けた人も少なくない。

 

つまり、相当の覚悟と多大な負担をして生活再建を図った人が再び被害を受けているのだ。

 

被害には遭わなくても、大雨を目の当たりにしてる人は『明日は我が身』と感情移入するだろうが、一段落すると傍観者になりやすい。

 

 

傍観してる世間は、『床上浸水して家や家財がダメになっても命が無事ならどうとでもなる』と軽く思っているだろう。

 

命を重視することが悪いわけではないが、それが過ぎると大事なことを軽視することにつながりやすくなる。

 

命を重視するようになると、命を失うことが最もあってはいけないことになる。

 

そして、命を失わなければいくらでもやり直しはできると軽く考えるようになる。

 

果たしてそうだろうか。

 

最近、生き方には質があるとますます思うようになってきた。

 

お金持ちになって贅沢できることが質が高いという意味ではない。

 

生き方の質とは、自分にとっての普通がいつでもあることが重要なのだ。

 

つまり、生き方の質は高い低いと比較するものではなく、あるかないかが重要なのだ。

 

その質を奪うという意味で大きく関わるのが、絶望と恐怖だと最近思うようになってきた。

 

 

水害を含めた地震や天災など不可抗力と思えることであるだけでなく、うっかりや不注意や油断や無知から生じる自己責任的なものまでその発生理由に関係なく、生じた絶望や恐怖は生き方の質を低下させるのだ。

 

 

そう考えると、コロナの見え方も変わってくる。

 

コロナの怖さは死亡につながる怖さではない、後遺症を含めた自分にとっての普通が消えてしまう恐怖や絶望なのだ。

 

 

 

普通じゃなくなってしまうのは自分だけで、周りの人にはいつもと同じに見えるので共感は得にくくなる、そのことも生き方の質を低下させるのだ。

 

当事者が感じる絶望や恐怖は当事者しか分からない、こういうケースでは論点がすり替わって世間には伝わるような気がする。

 

 

ウイルスや自然災害などだけではなく人為的なことですら、当事者以外にはその絶望や恐怖は伝わりにくいのだ。

 

 

 

 

自宅がわずか数年のうちに二度も床上浸水の被害にあった方のツイート。

 

 

 

 

当事者しか感じない絶望や恐怖があることを忘れてはいけない。