違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

望むことの再現性が低いのはなぜ?!

世の中には、『起きて欲しくないことが起こり、起きてほしいことが起こらない』というジンクスがあると思われている。

 

良くないことや望んでないことに限って『二度あることは三度ある』と繰り返されるように感じられることがある。

 

不幸が不幸を呼ぶ負の連鎖を示す法則としてマーフィーの法則が有名で、ウィキペディアには次のようなことが書いてある。

 

 

 

〜〜〜〜 以下引用〜〜〜〜

 

"If it can happen, it will happen."

「起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる。」

が基本精神であって、

 

 

その基本的表現は

 

"Anything that can go wrong will go wrong."

"Everything that can possibly go wrong will go wrong."

「うまく行かなくなり得るものは何でも、うまく行かなくなる。」

「何事であれ失敗する可能性のあるものは、いずれ失敗する。」

である。

 

歴史的には後述のように、

 

"If that guy has any way of making a mistake, he will."

「何か失敗に至る方法があれば、あいつはそれをやっちまう。」があり、

 

更にパワーアップした

 

"If there's more than one way to do a job, and one of those ways will result in disaster, then somebody will do it that way."

「作業の手順が複数個あって、その内破局に至るものがあるなら、誰かがそれを実行する。」に変化した。

 

日常生活でも

 

"It will start raining as soon as I start washing my car, except when I wash the car for the purpose of causing rain."

「洗車しはじめると雨が降る。雨が降って欲しくて洗車する場合を除いて。」

 

が知られている。

 

〜〜〜〜〜 引用ここまで〜〜〜〜

 

このように、良くないことが繰り返し起きたりすることは法則化されるほど世の中に溢れているが、良いことや望んでることの実現を繰り返すことに関しては法則化されないのは、当然のようであり不思議な気もする。

 

世の中には、繰り返し良いことが起きている人は少なからずいるような気がするのに。

 

 

 

しかし、もし良いことを繰り返すことを法則化できれば、考え付いた人は、その考えを独り占めし他人には教えたくないはずなので、法則があったとしても広く知られることは無いはずとも言えそうだ。

 

最近、“このように行動すれば良いことが起こる”というような内容の話が世間に増えている。

 

このような動き自体が詐欺をお手本にしたものだと言えそうだが、本当だったら取り入れてみたいとは誰しも思うだろう。

 

そんな時に思うのは、「その話に再現性があるのか?」だ。

 

話の主にとっては上手くいった話かもしれないが、上手くいくためにタイミングを含めて一期一会の要素が重要だったとしたら、再現性はかなり低くなることになる。

 

現代は結果が全ての時代だ。

 

結果が全てになると、人々の要求は即物的になる。

 

再現性を持つ他人の成功談を求めるようになる。

 

『わたしはコレで成功しました!』的なものを求めるようになる。

 

再現性には2種類あり、一つは模倣やパクリと相性が良いもので、昔の日本はこれが得意で急成長したが、その再現性が行き詰まりを見せると、もう一つの再現性に活路を見出すしかないが、それが上手くいかないのが現代だ。

 

現代に必要とされる再現性には、独自性やイノベーションが重視されてるように感じられるが、それは表面的な見方過ぎるだろう。

 

もう一つの再現性は、わかりそうでわからない正体不明だ。

 

 

確実に再現性が低い時代になったということが、格差の拡大を招いていると言える。

 

再現性が低いことの理由の一つは、先行者が全てを独占するからという側面がある。

 

そうなる理由として多様な意味で規模の大きさが求められることもある。

 

良い大学を卒業すれば良い人生が待っていると信じられていた頃には受験勉強に価値があった。

 

しかし、何ができるのかという結果が求められるようになると、従来の受験勉強で有名大学に入学しても、良い人生の実現には昔のような再現性は低いはずだ。

 

少なくとも大学入学前に、入学後何をしたいかが定まってる必要がある、だとすると入学前に必要なことは受験勉強ではない。

 

受験勉強を例に挙げたが受験に限った話では無い、社会ではもっと複雑な事情が作用してるので、ピント外れなところにエネルギーを集中させて、再現性の無さを嘆いていることがとても多いように見える。

 

 

再現性の無さを嘆いている人には何が足りないのだろうか?

 

多くの人は、情報(知識や勉強を含む)が不足してると感じたり、テクニック(道具や機材を含む)の不足だと感じるようだが、もっと根本的なところが足りないのかもしれない。

 

 

 

マーフィーは、こんなことも言っている。

 

苦しい時の神頼みはみんなするが、うれしい時に神に感謝するのはみんな忘れている。          

 

 

再現性が低いのは、結果ばかりを求めて発想も行動も即物的になっているからかもしれない。