昭和、平成、令和と時代が進むほどにコピー、真似、模倣のテクニックや完成度が高まった。
技術やテクノロジーは一定レベルまでは再現しながら改良を加えることで着実に進歩するし、結果も伴うものだったが、どうやらそんなスタイルも限界に達したようでもあり飽和状態に達したようでもある。
ヒットしてるものや上手くいってるもののコピーや真似や模倣では結果の再現性は得られなくなると、大きく方向性は二つに分かれる。
一つは、コピーや真似や模倣ではないものを見つけることで、出来ることなら誰だって目指したいところだが、言うほど簡単ではない。
もう一つは、コピーや真似や模倣が通用する他の分野を見つけることで、この最後のパラダイスとされてるのが投資。
もう少し正確にいうと、コピーや真似や模倣が成立するはずだという錯覚が成り立ちやすいことと、運やタイミングに恵まれると再現性は高まるという事例は多いので、自分もあやかりたいと狙う心理になりやすいのが投資なのだ。
現代の投資は、数学であり統計学であり心理学でもあるとされるので、努力や頑張りが報われそうだという錯覚を描くのは自然なことでもある。
それに拍車を掛けるのが、他の事の多くが頑張っても頑張っても報われないようになってるからでもある。
勉強するとテストで良い点が取れることは再現性が高い。
これを繰り返すと良い学校に進学できる可能性も再現性が高まる。
しかし、これを繰り返して学歴を充実させても、その先の人生で望むことの再現性はどんどん低くなっている。
社会人であればキャリアや実績を積み重ねた自負してても、それは単に年齢を積み重ねたとしか評価されないのが現代だが、若ければ単に実績も経験も無いだけとしか評価されないだけで、だったら人件費の少ない方が良いというのが現代日本のメジャーな再現性だ。
再現性を求める気持ちは、ギリシャ神話のパンドラの箱の希望のような存在になっている。
パンドラの箱の物語は多分に寓意的である。特に箱に残ったエルピスをどう解釈するかで物語の理解が分かれる。古典ギリシャ語のエルピスは、「予兆」とも「期待」とも「希望」とも訳され得る。英語圏ではエルピスは「Hope」(希望)と呼ばれている。