最先端の技術や素材が誕生する場合には、自然界に存在する生き物のからだの構造や動きを参考にしたものが多い。
しかし、参考にされた生き物は意識的にあるいは努力によってその特性を身に付けたわけではない。
十把一絡げに進化によって獲得されたとは言われるが、実際のところは、設計なき適応や理解力なき有能性と呼んだ方が相応しいもので本人(?)すら勝手に備わってる能力で、なぜできるかは理解できてないはずだ。
同様なことは人間にも当てはまるかもしれない。
人間の場合は、能力を求めるというよりも、結果を求めたがる。
成功したり賞賛される人がいれば、その成功や賞賛を自分も得たい、つまり、どうすればそれが再現できるかその答えが欲しくなる。
必然的にプロセスを模倣することで結果の再現ができないかと望むようになる。
この再現のレベルは、どういう受験勉強をすれば合格しやすいかくらいまではかなりの再現性があるかもしれないが、野球が上手な人ばかりを集めて大谷翔平さんがした生活やトレーニングを全く同じに再現できたとしても、結果はまるで付いて来ないだろう。
世の中がアナログからデジタルへ移行すると、主役はプログラムになる。
つまり、コピーで再現が完了する。
この場合は、コピーというよりもコピペの方が相応しい。
おそらく現代人の脳内には、上手にコピペすることで美味しいところの再現が可能だと考えがちになるはずだ。
人間の行動をコピペしようと思う場合、結果の再現性が欲しければ、生き様もコピペする必要があるだろうが、生き様のコピペなんて不可能だし、仮にそれができたとしても、何事もタイミングが重要になることを考えると、これまたタイミングのコピペも不可能だ。
結果を求めるあまり、コピペするだけで通用する答えを必死に探すことは無駄な努力だと思えてくる。
しかし、その結果だろうか、最近親ガチャ失敗が話題になっていた。
親ガチャ
— 天玉おじさん (@osake_tentama) 2021年9月15日
まさかのニュースで取り上げられてる。
親ガチャ失敗は虐待とか受けている子の話ではないの? pic.twitter.com/tV5PzFryZS
コピペしようにもベースが悪すぎるとでも言いたいのかもしれない。
誰でも自分自身に不満の一つや二つは最低でも持っている。
しかし、オリジナルの自分からは逃げようがないのだから、真正面から自分自身を受け止めたいものだ。
答えを簡単に手に入れようとすると、答えはますます遠ざかるかもしれない。