今回のコロナウイルスでも複数のデマが発生している。
意図的な嘘もあれば、間違った理解に基づくものだったりさまざまあり、過去には大地震などでも発生している。
デマに関してWikipediaでは噂#デマとして扱われていて発生する理由として次のように書かれている。
発生は、「情報の重要さ」と「情報の不確かさ」(嘘と本当の間に極大値を持つ)の積で与えられるとされる。
- どうでもいいこと(重要性低)が嘘に決まっているあるいは本当に決まっている(不確かさ極小)なら、流言発生はない。
- 大切なこと(重要性高)が嘘に決まっているあるいは本当に決まっている(不確かさ極小)なら、流言発生は噂話や伝言に留まる。
- 大切なこと(重要性高)が嘘か本当か分からない(不確かさ極大)ときに、流言が発生する。
今日はデマそのものには注目するのではなく、注目したいのは上記のような条件を満たしているだけではデマとして拡散されるためには何かが足りないような気がするので、その何かを探ってみたい。
内容は違えど似てるのがバズるだと思える。
どちらも、似たタイミングで、似た内容の発信がなされたからと言って、拡散されるとは限らないし、実際にはほとんどが無視されて終わるだけだ。
似た内容なのに拡散される情報と無視される情報に分かれる理由は何だろうか?
影響する要素として思い浮かぶのは、
- 一人一人が持ってる知識や常識
- 実際に世間(身近な目の前)で起きている事実
これらが前提となり、さらに自分にとっての自分だけのインフルエンサーというのもいるはずで、信頼している誰か・信用できそうな誰か
(≒行列に並ぶ心理や格付けやランキングを頼る心理を満足させるような)が、その件に関して反応したような場合に、同調するように発生するのが初期のデマで、この勢いが一定以上になると独り歩きを始め、そうなると間違いの火消しが大変になる。
デマには一定のパターンがあり、それが繰り返されてるところが、バズるツイートとパクツイの関係に似ている。
パクツイは、全く同じ(またはほぼ同じ)内容の過去に発信されたものを、パクってツイートするというもので、中にはオリジナルよりも反響の大きなものもあるし、何度も何度も発信者が変わりながらパクられ続けるものもある。
パクツイを専門に行うアカウントも存在するし、パクツイを発見するためにパトロールしてるアカウントも存在する。
わたしもパクツイと知らずに心が揺さぶられたことがあるが、そのような場合にリプを見るとパクツイであるとの指摘があると心が一瞬にして平穏を取り戻すという経験が何度かある。
このように一定の需要があるパクツイと繰り返されるデマが、発信者の動機という点では、ほとんど同じだと感じられる。
デマにもパクツイにも共通しているのは、情報の賞味期限が短くなってることで、瞬時の判断が求められるようになっていることがある。
無視するか、それとも疑うのか、はたまた信用するのか、それを瞬時に判断しなければいけないのだ。
コロナウイルスに話を戻すと、そもそもコロナウイルスは恐れる必要がある存在なのだろうかというところから始まる。
コロナウイルスを恐れる人もいれば恐れない人もいるが、当初は最も多いのは判断が付かず推移を見守るだけの人たちだ。
見守ってる多くの人は、その推移を見つつ多い方に寄っていく。
この反応は日本人特有だと思っていたが、同じことは世界中で見られるので、文化度や先進性とはあまり関係ないのかもしれない。
人は誰でも真実を知りたいし、真実に反応し、対応したいと思ってるはずなのに、いつしか多数決に反応してしまうのだ。
デマに反応してる時は、真実に反応してるつもりで目の前の多数決に振り回されているのだ。
そうすると不思議なことが起きるのだ。
「足りないというのはデマです」とメーカーが言っても、デマを信じた人々が大量に買うことでデマが現実になってしまえば、それはもはやデマではなく、現実なのだ。
こうして、真実とは違うデマが、現実に起こるようになることがあるのだ。
不思議であるとともに、つくづく賢いとバカは紙一重だと思い知らされる。