違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

アクセルvsブレーキ!

ブレーキをかけながらアクセルも同時に踏むというのは使いこなせるならば高等テクニックとしてレースではアリなのだが、一般的には両立しない矛盾となる。

 

 

ブレーキをかけたり、アクセルを踏んだりすることは『時間』にも当てはまるのだ。

 

高級店で出されるワインや肉は熟成されたものがさも良いことのように取り上げられる。

 

熟成とは、時間をかけることによって起きる変化を好ましいこととして評価するから生じる価値観。

 

似たようなことはオーディオの要とされるアンプにもある。

 

新品のアンプは良い音を奏でないとされ、数十時間ほど聴いてない時でも音を出し続けて熟成させることで良い音を奏でるようになるという儀式めいたしきたりがある、これをエージングと呼ぶ。

 

楽器の世界でも名器と呼ばれるものは長い時間をかけて名器の地位を築く。

 

 

時間が過ぎることは一般的な食品や機械装置だと劣化を気にするのに対して、一部の分野では熟するというプラスの評価が適用される。

 

 

しかし、人間そのものに目を向けると全く逆のことが起きている。

 

 

年月を経ることによって起きる変化は歓迎されないことが増えている。

 

熟成することがエージングと呼ばれ歓迎されるのに対し、歓迎されない場合にはアンチエージングという概念が生まれる。

 

 

ほっといても自然に歳を取るのは人間の宿命で、これは一定のペースでアクセルが踏まれてる状態に似ている。

 

これに対してアンチエージングはアクセルを踏みながらブレーキをかけることに似てる。

 

アンチエージングに関してはブレーキが歓迎されるのに対して、歓迎されないブレーキもある。

 

望む結果を手に入れるためにトレードオフが発生するものだと心のどこかでは感じているので、努力やガマンや頑張りが必要だと思っているはずだ。

 

しかし、そんなトレードオフ要素はできれば省略したいものでもあるし、省略できることが効率的だと思われる空気が強くなっている。

 

それは、努力やガマンや頑張りが報われないことが増えているからなのかもしれないが、一般的には努力やガマンや頑張りはブレーキ的な存在にも感じられるのだ。

 

 

さて、最近日本を含めて世界では本当と嘘の区別がつきにくいことが増えている。

 

嘘はデマやフェイクとも呼ばれる。

 

意図的にデマやフェイクを撒き散らす者にとっては嘘をつくことはアクセルを踏む行為だが、そんな嘘を信じて翻弄される者にとってはブレーキになる。

 

 

今日ふと思ってTwitterで『アクセル、ブレーキ』と入力して検索すると、車関連の話題よりもコロナ関連の政治的な施策を巡る話題がとても多いことに気付いた。

 

今年の夏は窓を開けてエアコンをかけようと言ってるが、これもアクセルとブレーキを同時に踏んでるようなものだろうし、外出や旅行における自粛とGoToも同様だ。

 

社会の中には様々なアクセルとブレーキのように見える対になった関係がある。

 

 

 

コロナ前は経済に関しては、誰もがアクセルを踏むことが大事だと思っていたが、アクセルを踏んでももはやスピードが上がる気配は感じられなかったが、コロナが発生したことで社会活動に一斉にブレーキがかけられてしまった。

 

今となっては、アクセルを踏むことに躊躇するようになってしまっている。

 

もしかすると今の世の中は、これまでとは違った別の力で動き始めていて、ある意味暴走気味だとすれば必要なのはアクセルではなくブレーキになる。

 

なんの根拠もないが、コロナ後は社会におけるアクセルとブレーキの役目が全く逆になるのかもしれない。