緊急事態宣言が出されるだけあって、コロナもしくはコロナウイルスというキーワードはGoogleTrendsで見ると日本では検索の勢いは全く衰えてないことが分かる(4月7日朝7時時点)。
わたしはこの1ヶ月ほどブログを書く際に、今日こそはコロナ以外の話題にしようと思いつつ内容を考えるが、スタートはコロナ以外で発想しても、そこに今現在という時間軸が加わると、コロナと結びつくことが避けられないのだ。
この現象は、わたしだけではないはずだ。
つまり、何か発言すると、それはコロナに絡んでしまうようになるのだ。
程度の違いはあっても、ほぼ全てに近いくらい大勢の人たちがコロナに関連することを話しているとすると、コロナに関してはもしかするとノイジーマジョリティが当てはまるのかもと思え始める。
コロナ前の常識として『サイレントマジョリティvsノイジーマイノリティ』という対比があったが、コロナ関連をキッカケにノイジーマジョリティという層が誕生したかもしれないと考えてみた。
マジョリティがノイジーになるキッカケの一つは、大勢に共通する象徴的な出来事が起きることだ。
それが志村けんさんの死だったような気がする。
上記のGoogle Trendsに志村けんさんを加えて見ると、
志村けんさんの死をキッカケに、コロナの検索の角度が上がっていることが分かる。
志村けんさんの人間性やキャラクターを懐かしみながら惜しみながら嘆く声よりも数段高いコロナへの無言の恐怖が感じ取れる。
志村けんさんの死は、サイレントマジョリティに恐怖を植えつけたのだ。
先日NHKで以下の番組を見た。
シリーズ「 #デジタルVSリアル 」(全2回)
— NHKスペシャル公式 (@nhk_n_sp) 2020年4月1日
2018年、メキシコの小さな街でフェイクニュースによる殺人が起きました。
大衆の「正義」が暴走したのです。#NHKスペシャル
4/5(日)夜9:00[総合]
第1回 フェイクに奪われる“私”
👇フェイクニュースが命を奪ったhttps://t.co/wGliNeyvA0
フェイクニュースが集団リンチ的な殺人につながった事例などセンセーショナルな映像もあったが、わたしの印象に残ったのは、『フェイクニュースがリツイート等で伝わる速さは真実の20倍』とデータを交えて伝えていたことだった。
フェイクニュースを、ただのウソやデマだと思いがちで、そう思うとウソやデマに騙されないためには、いわゆるリテラシーが大事だと解釈するようになる、わたしもだ。
長嶋一茂さんはテレビで、東京がロックダウンするという噂(=フェイクニュース)を信じたのは、『嘘って思いながらも、然もありなんとも思ったから』と言って照れていた。
この『嘘って思いながらも、然もありなんと思う』という気持ちが、謂わゆる琴線に触れるということなのかもしれない。
琴線に触れるというのは、辞書的には良い意味での感動を受けることを意味するのだが、ベクトルは違っても負の影響力の強さの謎を説明するのに、琴線に触れるという表現は分かりやすい気がする。
別のことに例えると、音叉が共鳴する現象にも似てそうだ。
共通するのは、音(=振動)の響きであり、音の伝わりだ。
志村けんさんの死が、サイレントマジョリティの心に音叉が共鳴するように恐怖を忍び込ませたとすれば、サイレントマジョリティの何気ない一言は、別の人の心に共鳴しやすくなるだろう。
サイレントマジョリティがつぶやく一言は、きっと然もありなんと思える内容が多いはずで、悪意など無く、むしろ善意しかないだろう。
しかし、そんな一言は真実ではないことも多いかもしれない。
誰も長嶋一茂さんを笑えなくなるどころか、同じ目に遭うだろうし、遭わせるのだ。
これが繰り返されると、サイレントマジョリティがノイジーマジョリティに転じてしまうのではと思えてくる。
決して罵詈雑言を発するのではなく、静かな穏やかなトーンでありながらノイジーなのだ。
日本流のガラパゴスは、国民のマジョリティがサイレントだからだとすると、コロナは日本がガラパゴスを脱するためには役に立つのかもしれないと思える。
日本の都市部で出される緊急事態宣言はゴールデンウィーク明けまで続く予定だが、この1ヶ月の間にサイレントマジョリティがどう動くかは要注目だ!