コロナのせいで世の中が大混乱してるのは、正解が分からない問題がさまざま突き付けられているから。
箇条書き的に示すと、
- コロナそのものが十分に分かってない
- コロナに罹ったらどうなるのか
- コロナに罹らないためにはどうするのか
- コロナ対策に伴う自粛で滞った人間活動の今後はどうなるか
などなど。
いろいろな立場の人が、いろいろなことを言ってる姿を連日見せられると自然と『誰も正解が分かってないんだな』と言うことだけが伝わってくる。
しかし、多くの人が正解は分からないけど、こうすれば良いんじゃないかと言う話を、出来るだけ分かりやすく伝えたいと思っていることも伝わってくる。
そんな姿を見ていると、日本のプレゼンテーションの変遷が思い出される。
昭和の頃は、意味不明な難解な文章を読み解くことが読解力だと思われていたのは、学ぶ側に押し付けられていた屁理屈だったのだなと今更ながら思い当たる。
意味不明な難解な文章しか書けない文章力が、批判の対象になることが少なかったのが昭和だったのだ。
昭和の末期に総理大臣を務めた竹下登の、国家答弁でハキハキと答えるが何を言ってるか分からないが故にツッコミを回避する姿は、言語明瞭意味不明と揶揄されながらも、日本独自のガラパゴスプレゼンテーションとして定着していたように感じられる。
分かりやすいことは、子供でも分かる、だから子供っぽいと判断されたのが昭和。
しかし、分かりやすさに重きが移ったのは、おそらく外資系企業のプレゼンテーションスタイルが浸透したおかげで平成以降、これはグローバル化のおかげかもしれないが、分かりやすく相手に伝えるためには、伝え手は内容を正しく完全に理解してることが必要になる。
その中では、ここまでは分かってるが、ここから先は未知数だということが表現される必要があることもある。
つまり、昭和はよく分かってない人がプレゼンテーションしていた時代だと思えてくる。
こういうプロセスを経ると、大事なことは子供にも分かるように表現しろとなる。
こうして、プレゼンテーションの在り方が分かりやすさを求める方向に一旦シフトしたのだが、最近一部で昭和化を感じることもある。
小池百合子東京都知事や安倍晋三首相の会見や答弁に見られるカタカナ語の多用、安倍首相の場合はさらにプロンプターという文明の利器を使ってる姿が良い意味での先進性を全く感じさせず、上手に使えば分かりやすさに貢献するはずのことが、より一層の分かり難さに作用するところがむしろ昭和の残党感が拭えないという皮肉だ。
あるいは一時期話題になった菅官房長官の何を聞かれても『仮定の質問にはお答えできません』や『その指摘は当たりません』も昭和の匂いが漂う。
言語明瞭意味不明の最近の使い手としての代表格は小泉進次郎だが、こちらは公私にわたる隙の多さから最近は失脚気味。
政治の世界で表舞台に立つことが多いリーダーに昭和化が際立つような気がしている。
昭和化してるのか、あるいは脱昭和ができずにいるのかは不明だが、日本では分かり難さの背後には昭和がチラチラ見えるのは気になるところだ。
日本人の平均寿命が伸びてるところに弊害があるとすれば、いつまでも昭和基質が残ってることかもしれない。
昭和気質がブラックの元凶かもとも思えてくる。
たぶん、昭和には罪はないのだろうが…。