記録や観察の場合は、添えられる文や写真(絵でも同じ)は分かりやすいことが重要。
分かりやすい文や写真とセットで表現されたことは、介する経路や人が誰であっても同じように伝わるはず。
一方で、目的が鑑賞ならば分かりやすいことは必須条件ではない。
必須条件ではないが、ただ分かりづらいだけでは思いの共有が困難なので鑑賞の味わいは微妙になるので、それなりの分かりやすさは必要になる。
鑑賞が商業目的であれば解説やコンシェルジュ的な存在が必要になるのは、万人に分かりやすくは作られてないからでもある。
情報化やデータ化が高度になればなるほど、分かりやすいことは陳腐で当たり前で面白味に欠けるものになりがち。
現代では、理解することが困難なことの多くは、初期の段階ではアートに分類されがちで実用性や実利に乏しい。
高度な技術の多くは、自然界に存在する虫や鳥や動物の身体的特徴にヒントを得てるものが多いという意味では、単なる鑑賞の域を超えた目の付け所が重要で、その重要さを分かりやすく説明することは初期の段階ほど困難なはず。
記録や観察の積み重ねは当初想定できなかった新たな仮説につながることも少なくない。
誰もがカメラを持ってる現代では観察や記録は簡単にできるはずだが、中途半端にカメラの性能が良いことが災いし、観察や記録の対象を絞れずにいるように見える。
結果、身の回りで起きてる実際の変化にすら気付かない人が多そうだ。
古来、愛でるものといえば花鳥風月だったが、今はどうなのだろうか?
簡単そうなのにできないのが記録や観察。
記録や観察を楽しめてる人はどのくらいいるのだろうか?