コロナのおかげでオリンピックが延期になり、各種のプロスポーツやアマチュアスポーツも活躍の舞台を奪われた日々が続いている。
切磋琢磨や試行錯誤は、勝利や順位や記録の更新を求めて行うものだったが、その成果を発揮する場が奪われてしまった。
努力や苦労は必ず報われるとは限らないが、報われると信じて切磋琢磨や試行錯誤を続けられることは希望や夢と表裏一体で、どんな逆境でも頑張る余地はあるものだと信じられていて、そのことを疑う気持ちが、つい最近までなかったことがまるで幻だったかのように感じられる。
スポーツに心置きなく打ち込めるときには、対戦相手や競争相手は敵であるとともに、敵がいなければ対戦や試合は成立しないので、そういう意味では仲間ではないがお互いを必要としあう関係ではある。
わずか3ヶ月足らずで当たり前が当たり前ではなくなると、かつての当たり前を望むことは高望み扱いになってしまった。
突然生じた大きな変化を青天の霹靂と呼ぶが、コロナで生じた変化は突然というよりはもう少し時間をかけて真綿でじわじわ首を絞めるように忍び寄っていた。
事態が明るみに出る頃には、誰もが薄々感じていた(=恐れていた)。
スポーツに限らず、コロナの直撃を受けているのは自由の上に成り立っていた分野で、一人一人が持っている好きの上に成り立っていた分野。
好きだという自覚は乏しくても、自ら選択したのであれば広い意味で好きだといって良いのだろう。
そして好きの上に成り立ってると、自覚があろうとなかろうと、自然発生的に競争が起こるのだ。
競争が指し示す意味や解釈は多様で、競争しないという競争もありうる。
好きが支える競争分野というのは、マグロのような回遊魚の生態とよく似た生態を示す。
動きを停めると死ぬので、死ぬまで泳ぎ続けなければいけない。
泳ぎをやめると死ぬ理由は、
- 回遊魚の代表のマグロの場合、エラを動かせないので、泳ぎながら水流を絶えずエラに導かないと呼吸ができない
- 同じくマグロの場合、身の密度が高く海水の比重より重いので泳ぎをやめると沈んでしまう
図らずもコロナ対策での自粛生活で露呈したのが、日本人の生活やビジネスが思ってた以上にその日暮らしであり自転車操業だったということ。
その日暮らしや自転車操業の状態で自粛を強いられた場合、最も負担感が大きいのが家賃だと報じられている。
逆に考えると、家賃ビジネスを展開する側は、その日暮らしや自転車操業を食い物にしていたことが分かる。
わざと嫌な表現をしたが、法に触れるわけでも悪いことをしてるわけでもない。
強いて言うなら、借りたものの上に土台を作ると不安定なのだろうなということだ。
家は持ち家が良いか賃貸が良いかと言う議論は多いが、コロナが教えてくれたのは、持ち家であってもローンを組んでいるならそれは実質は賃貸だということ。
家や住居にコストがかかっていて、その負担が続くことが、ピンチや緊急時には生きる上で最も大きなリスクになると痛感しているが、これはどのような時間軸を当て嵌めるかで見え方が変わってくる。
今は月単位で負担が発生してる人の苦しみが目立っているが、遅かれ早かれ多くの人に等しく課される苦しみだ。
ネット上を検索すると、自転車操業の反対語は?、との問いに対し、止まると倒れる自転車に対して止まっても倒れない自動車操業という回答や、悠々自適と答えるものなどがあったが、止ったら倒れるからという意味では、現実的には足をつくので転倒はしないし、コロナで強いられた自粛生活には悠々自適も通用しなかったことを考えると、人間は程度の差はあってもマグロと同じで止まったら呼吸もできずに沈没するだけの船のような存在なのかもと思えてくる。
より速く、より遠くに向かうことに価値を見出し続けてきたが、ただ動いているだけということも評価されて良いはずだ。
ゆっくりと近くをのんびりと、という価値観が見直されるかもしれない。