大事なことや肝心なことは忘れないようにしようと意識するが、意外と簡単に忘れてしまう。
大事なことや肝心ことが、嫌な思い出や苦しい体験とリンクしていたならば、心の平穏を保つためには忘れることが必要な場合もあるだろう。
しかし、結果として忘れていたことで準備不足が起き、適切に対応できなかったために、後悔先に立たずが起きることは少なくない。
車にアクセルとブレーキが両方必要なように、人間にも相反する制御は必要になる。
ポジティブとネガティブ。
楽観と悲観。
活動と睡眠(休息)。
これらを自分の意思でコントロールしてるように感じてるが、自分でコントロールできてるのは一部にしか過ぎない。
おそらく記憶と忘却もアクセルとブレーキのような関係でかつ人間が意思でコントロールしきれない領域なのかもしれない。
決して色褪せることないと思ったはずの2011年の東日本大震災の津波は未来に向かってどのように語り継がれるのだろうか。
東日本大震災の前から東北地方の太平洋側では津波の怖さは語り継がれていた、度々津波が起きていたからだ。
しかし、東日本大震災規模となると869年(平安時代)の貞観地震まで遡ることになる。
貞観地震の恐怖や教訓は語り継がれなかったように見えるが、本当はどうだったのだろうか?
地震から5ヶ月後の8月にTBSが『報道特集』でその謎に迫っていた。
<参考>
https://togetter.com/li/177304
その6年後にはこんな記事が、
神は存在する ― 津波に襲われなかった数々の神社の謎と1000年前のスピリチュアルメッセージ
この番組の反響は大きかったのだが、影響力はというと今となっては覚えてる人は少ないだろう。
番組では、津波被害で波が到達したギリギリの地域のその境界付近に神社が多いことに着目。
さらにその神社の建立時期を調べると貞観地震から100年以内がほとんどで、それらの神社は東日本大震災での津波から免れているものが多かったのだ。
文書にして残すのではなく、大地震が起きたら神社まで逃げろという教訓だった可能性が大なのだが、そのことに気付いたのは東日本大震災後だった。
歴史は繰り返すと言われるが、それは地球の営みだけでなく、人間の忘却が原因でも起きているのだ。
未来だけを考えたいのに、そのためには正しく過去を認識することも必要なのが悩ましい。