分析と称する行為は誰でも自然とやっていることで、自分の意見や考えを整理したりまとめたりする時につきものだが、その分析が正しく的を射てるかとなると一気にハードルが上がるものだ。
世間で起きた出来事に対して、評論家や専門家を気取って自説を述べるような時には必ず自分なりの分析が付き纏うが、同時に同じような取り組みをする人が多いので、それらの他人の意見の影響も自然と受けてしまう。
自分のオリジナルの意見のように思っていても、中身はモノマネやパクり同然だったりということはよくある話となる。
おまけに、例えばブログを例にあげると、読まれないよりも読まれたいという気持ちが強ければ、世間の反応が強い分野や特に反応が出ている出来事へのリアクションになってしまいがちだ。
結果として、同じネタやテーマのものが増えてしまいがちだが、よく考えるとこの現象は大きなスーパーの商品の陳列と同じだと気付く。
分析をするからこそ、似た種類の商品がラインナップされるのだろうが、私にとってはたくさん似た種類があっても選択肢が多いとは感じにくいのだ、この私のような反応は分析の際にどこまで加味されるのだろうか?
もしかしたら私のような反応は無視して構わないというデータが得られてるのかもしれないとも感じる。
一般的には、多くの人が飛びつく話題に乗っかりさえすれば反応だけは得られるはずと考えることの方が楽だが、最近の世の中はそう単純ではなくなっている。
個人レベルで何かをやる際に、それがビジネスであれ趣味や遊びであれ、一定の評価を得たいと思うならば、評価してもらえる市場を見つける必要があるので、ここでも分析が必要になる、それも的を射た分析が。
このように考えていると、分析にも種類があることに気付ける。
大きく分けて二つの分析がある。
- 的を射た分析
- 的を外した分析
ギャグやナンセンスが目的ならば『的を外した分析』が的を射るということもありうる。
しかし、多くの場合は次の手を打つために現状を分析しようとする。
このような場合は、的を射なければいけない。
今朝あるツイートが目に入った。
現在のようにSNSが全盛の時代では文章が溢れすぎているので、『基本的に文は読んでもらえないと思うべき』という意味が書かれていた。
確かに、巷には同じような似たような内容が溢れているかと思えば、全く正反対のことがもっともらしく書かれていたりするものが多数あるのでうんざりして読みたくなくなることは多い。
何か買い物をする際にレビューを参考にするが、今は嘘のレビューも溢れている。
嘘の中には、当たり障りのない無難な嘘もあり、それらは毒にも薬にもならないから問題はないが、嘘の中には貶める嘘と褒め称える嘘があるので、これらは見抜く必要がある。
分からないから買う前に調べているのだが、その最中に嘘を見抜くことも要求されるのがいかにも現代と言える。
この嘘を見抜くことと、的を射た分析には重なる部分が多い(はず)。
そんな時には仮説を立てることが有効かもしれない。
嘘を見抜く場合だったら、発されてる情報と情報発信者の人となりを心理学的に分析解析するといえば大袈裟だが、少し感情移入して自分が同じ体験をしたとすればどんな反応をするだろうかと考えると、自分と発信者の違いが見えてくる。
そうすれば参考になる意見なのか、それとも無視して構わない意見なのかが判断できるはず。
分析する際に、他人のことは比較的簡単に見えるものだが、厄介なのは自分自身に関することだ。
分析しても気付かないというよりも、分析すれば気付くことに素直に従えない場合が多いのだ、私の場合は。
頭で描いているやりたいことと乖離してると面倒くさくなるのだ。
遠回りを楽しむ人生を歩んできたので(≒最短ルートで目的を果たすことに失敗したとも言える)、近道や効率に対して何を今更と拒否反応があるのかもしれない。
ところで、自分のことで分析可能なことって何があるだろうかと考えていたら、ブログをやっていてGoogleアナリティクスも連携させてるのでデータ化はされているのだ。
これまでも分析しようかと眺めたことは何度かあるが、自分事として全くピンと来ないので取り組んだことはない。
今年の盆休みは、少し自分のブログを分析しようかと思っている。
ちなみに5月のGoogleのアップデートでアクセスは1/6~1/7に下がっていて、コロナの影響を受けてる旅行飲食業界と同じになっている。
分析で何に気付くのか?
何も気付かないのか?
少し興味がある。