違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『年の功』はどこに向かう?

年長者は体験や経験が豊富なので、持ってる知識や知恵は見習うべきだということを意味することわざが亀の甲より年の功

 

五世紀に日本に伝えられたとされる孔子の教え儒教も、年長者を敬うことを説いている。

 

そんな教えや言い伝えを裏付けるかのように、日本の昔話や童話に出てくるおじいさんやおばあさんは、一部例外はあってもみな心優しく穏やかな人柄に描かれることが多い。

 

 

しかし、

 

 

 

 

年長者を敬うということがごく自然に受け継がれた時代は、全てが手作業や手作りで行われ、農業を始めその都度変化する自然と折り合いをつけることが必要だった。

 

そんな時代には、経験や体験に裏付けられた知識や知恵は最も大事だったはずだ。

 

 

翻って現代は、日進月歩の時代。

 

日進月歩を支えるテクノロジーは、過去の試行錯誤の積み重ねの上に成り立つが、多くの人にとってはその積み重ねの歴史は省略されて無かったものとして、受け継がれる。

 

現代は、短期間のうちにリセットが繰り返される時代といえる。

 

一旦リセットされるとリセット前の知識や経験は、本当は必要なのだが、表面上はあるいは大きな問題が起きなければ、不必要なものとして扱われる。

 

昔の経験や知識が軽んじられると、年長者の出番が少なくなるのは当然で、むしろ絶えずリセットを強いられる年長者の方が経験や知識が不足する人として扱われるようにすらなるだろう。

 

そんな時代に年長者が適応しようとして模索した結果が、上記ツイートのような事態につながるのだろう。

 

日進月歩というとテクノロジーの世界を思い浮かべやすいが、タイムラインを次から次に流れる情報と捉えると、すべての人に当てはまる話になる。

 

古い情報が内容を吟味されることなく新しい情報に上書きされているとすると、しかも新しい情報にはフェイクやステマが多いことを考えると、良かれと入手した情報のせいで間違った方向に向かい出すかもしれない。

 

間違った方向に向かう人が多くなるとどうなるか?

 

次のツイートは女子高生のもので、彼女には教師というのがどのように見えてるかが書いてある。

 

 

情報には署名付きのものと匿名のものがあり、署名付きのものの方が信頼性を含めて格が上だと位置付けられる。

 

情報とは、最終的には発信する個人に紐付いて行くとすると、情報とはことばだと分かる。

 

 

 

 

発信してる人の姿が見えると、その人が発することばにも人格や人間性が反映されてると受け取ることも多い。

 

しかし、ことばにもフェイクやステマが紛れ込むのだ。

 

 

 

 

日本に限った話なのだろうか?

 

 

魅力的なことばが、そのことばにそぐわない人格や人間性の持ち主から発されることがあるように、その逆に人格や人間性に難があるとされる人の口から鋭く確信を突くことばが発されることもある。

 

 

年の功が生きていくためにはリセットしない(されない)連続性が必要だと感じるが、現代はリセットの時代なので、年の功が通用しづらいことを嘆いてもしょうがない。

 

年の功とは白と黒の世界にはグレーという無限のグラデーションが存在していることに気付くことだと教えてくれるのが次のツイート。

 

 

 

 

0と1で表現されるのがデジタルの世界で、それこそが現代であり未来。

 

デジタルの世界では0と1の組み合わせでグラデーションを表現しようとしてるし、できないことではなさそうに感じられるが、どこまで行っても連続的にはつながらず、どこで切り取っても明確な0と1の切れ目がある。

 

 

 

年の功は、どこに向かっているのだろうか?