違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

同じと違うの違い!?

違っているのに、似てないのに、同じだと感じることがある。

 

例えば、ブログを書く方だったら自分のブログは書きながら読んでいるし、他人のブログも読んでいるはずだ。

 

自分のブログを書きながら読んでいて、取り扱うテーマは違っているのに他のテーマを扱っている時と同じ匂いが漂っていることに気づく人は多いのではないだろうか?

 

私はよくあるし、別の方が似たようなことを言っているのを聞いたこともある。

 

そういう時に、『俺ってダメだなあ』と感じることがある。

 

しかし、そんなことを感じる必要はないのでは、という話をしてみたい。

 

 

 

 

人間を特定する際に指紋が用いられるのは一人一人模様が違うからと言われているが、ボーッと指紋を見ていても違いを感じることはない、いや一生懸命見ても人物特定に繋がるとは感じられない。

 

人物特定に歩行姿が用いられることもある。

 

ドラマ『科捜研の女』では歩き姿を鑑定する歩容認証がよく出てくる。

 

余談だが、このブログを書くまで『ほよう』は“歩様“だと思っていたが検索して正しくは歩容だと分かった。

 

歩き姿は指紋と違って、特に技術を使わなくても違いや特徴が現れていることには気付いてる人は多いはずだ。

 

しかし、歩くという行為を文章で説明すると歩き姿の多様性はとても表現できない。

 

このように考えると、文章には表現力の限界があるように感じられるのに、文章には著者の言い回しの癖や言葉の選び方の癖が現れるので、この文章は〇〇さんが書いたんじゃないだろうかと連想が働きやすい。

 

 

文章にはとても個性が出るのとするならば、言葉の選択や言い回しを含めた文体にも、指紋や歩き姿に通じる個性が隠せないからだろうし、その個性とは限りなく癖と言えるような気もしてくる。

 

 

癖が個性になってることは多いはずだ。

 

同じことを繰り返すから癖になる、その繰り返しが意識的だろうが無意識的であろうが。

 

癖が個性になるということは、そこに違いがあるからだ。

 

 

同じが違いに繋がるとはなんとも哲学的だ。

 

 

 

エンタメの世界では、同じことをやってると飽きられると言われる。

 

エンタメの世界では、違うことを目指して躍起になるが、映画やドラマでは36のパターンに集約されると認識されている。

 

ジョルジュ・ポルティの『物語の36曲面』

 

1  哀願・嘆願

2  救助・救済

3  復讐・復讐に追われる罪

4  近親間の復讐

5  逃走(追跡)

6  苦難・災難

7  残酷な又は不幸な渦に巻き込まれる場合

8  反抗(謀反)

9  戦い(不適な争い、大胆な企図)

10 誘拐

11 不審な人物または問題(謎)

12 目的への努力(獲得)

13 近親間の憎悪

14 近親間の争い

15 姦通から生ずる残虐

16 精神錯乱

17 運命的な手ぬかり(浅慮)

18 知らずに犯す愛欲の罪

19 知らずに犯す近親者の殺傷

20 理想のための自己犠牲

21 近親者のための自己犠牲

22 情熱のための犠牲

23 愛する者を犠牲にする場合

24 三角関係

25 姦通

26 不倫な恋愛関係

27 愛する者の不名誉の発見

28 愛人との間に横たわる障害

29 敵を愛する場合

30 大望(野心)

31 神に背く争い

32 誤った嫉妬

33 誤った判断

34 悔恨

35 失われた者の探索と発見

36 愛する者の消失

 

 

36もパターンがあると脚本には無限のパターンがあると感じる人もいるだろうが、このパターンを認識するとどんな脚本も過去の何かに似てることになる。

 

 

 

一方、政治やビジネスの世界では、結果を出したければ同じことを愚直に繰り返せと今でも言われることが多い。

 

ビジネスの世界では、新商品や新サービスという同じではないということに注目が集まるが、商品やサービスを普及させるために採られる手法は同じことが繰り返される。

 

 

しかしながら現在のように多様化した時代になると、違いをアピールする新商品や新サービスに『またか』と感じることが増えている。

 

 

一方で、使われてるマニュアルはほとんど同じはずなのに、接客というジャンルになると、違いを感じることの方が多い。

 

チェーン展開されてる接客ビジネスでは、一見客の目には金太郎飴に見える接客スタイルも、常連客やヘビーユーザーの目には違いが認識されてるはずだ。

 

その違いは、店のスタッフをその他大勢の一人と捉えるか、そこにいるその人と捉えるかの違いだと思えてくる。

 

この感覚は、リアルな場であろうと、ネットや仮想の場であろうと、ほぼ同じように機能すると思える。

 

 

このように考えていると、違いをアピールしようと思うならば、同じことを継続することが近道であり早道なのではないだろうかと思えてくる。

 

 

世の中は得てして向かってる方向の反対側が本当の目的地だということがある。