人間の悩みの大半は人間関係だと言われる。
明らかなイジメや暴力があるならば人間関係の問題というよりも犯罪になるので、人間関係の問題と捉えるべきではない。
人間関係の悩みとは、その大元にあるのは言動を通じての情報のやり取りによって生まれるものだと捉える方が的を射てるはず。
言った言われたを入り口にして生じた情報に対して、ストレスなど負の影響が生じることが、脳内では人間関係の問題として認識されるのではないだろうか。
情報として知ったことによって生じた悩みの場合もあるが、その情報の伝えられ方や解釈の仕方に振り回されることの方がはるかに多いはずだと感じられる。
情報化社会と言われるようになって久しいが、情報化社会とは情報をもたらす人間関係であり、情報がもたらす人間関係、と言えなくもない。
好きな作家の本をたくさん読むことは一種のフォロワー状態だが、この関係だけだったら片道の一方通行だが、この作家がSNSをやっていれば何気ない日常まで感じることができるし、自分のことをフォローはしてもらえなくても、こちらからも発信できるので双方向性が成り立つ。
このような関係は広げようと思えば無限に広げていけるので、興味や関心がある人のフォローをするということが最初のアクションになる。
興味や関心は、憧れや尊敬と置き換えても成り立つ場合も多いだろうし、いつかは追い付きたいお手本としても位置づけてる場合もあるだろう。
そう考えると、現代の人間関係はグッと広がっていて、リアルには知らない人からも強い影響を与えられてるし、与えてもいると言える。
このように考えいくと、人間関係に悩む場合の多くは情報に振り回されているだけで、情報に振り回されるとはことばに振り回されることだと気付ける。
政治や宗教だけでなくエンタメなども大勢の人が集まるが、そのような場に集う大勢の人々は、無意識で無自覚だが自分のために発されることばや、自分に向けて発されることばを、求めているのかもしれない。
求めてることばは、自分を励ますものであり救うものだ。
こんなことばがある。
尊敬したり憧れてる人のことばを追いかけても、その人には追いつかない。
心の琴線に触れることばというのは確実に存在するが、そのことばが自分の外側からのインプットに留まる限りは、結果はついてこないということだろう。
大事なことは、心の琴線に触れるようなことばが自分の内側からアウトプットとして出てこなければいけないのだ。
そのためには、心の琴線に触れることばをインプットすることを遮断することが大事になる。
発することばが魅力的で熱烈な思いでフォローしてる人がいるならば、そのフォローを外すことが良い意味での変化を招くかもしれない。
同様のことは自己啓発書にも言えるだろう。
どんなことばが自分の心の琴線に触れるかが分かっているならば、そのことばが自分の内側からアウトプットとして出せるようなステージに移った方が良いはずだ。