友達関係や恋愛関係だけでなくビジネス上の人間関係にも、人間の距離観が現れる。
一般論で語られることもあれば、個別の世界観として語られることもあるように、解釈に一定の幅がある。
コロナが流行したことで、一気に認知が進んだワードがある。
例えば、
- 濃厚接触
- 社会的距離(ソーシャル・ディスタンス)
- 都市封鎖(ロックダウン)
- 自粛要請(or自粛警察)
これらのワードは、コロナ前の日常にはなかったか、あったとしても近未来や仮想世界を描いた小説や映画の中で使われるようなことばだった。
つまり、どこかSF的なイメージが付き纏うワードなのだ。
覚えているだろうか、濃厚接触というワードが日本でコロナ絡みで使われた最初を。
誰もが、濃厚接触=性的接触だと思ったことだろう。
実際の最初は、中国人観光客を乗せた観光バスの中での感染で話題になり、その際のキーワードとして身近なものになり、その後でダイヤモンドプリンセス号の件が発生し、さらにその後で屋形船での感染が発生したことで、濃厚接触というワードは、日常用語として定着したような気がする。
屋形船での感染は個人タクシーの組合の新年会だった
こうして、日本での濃厚接触のイメージは、乗り物に一緒に乗り合わせるという環境と結び付いた。
コロナ前にポピュラーだった人間関係の距離に、 パーソナルスペースと呼ばれる概念があり、引用すると次の表のようになる。
類型 |
概要 |
近接相 |
遠方相 |
密接距離 |
ごく親しい人に許される空間。 |
0 - 15 cm 抱きしめられる距離。 |
15 - 45 cm 頭や腰、脚が簡単に触れ合うことはないが、手で相手に触れるくらいの距離。 |
個体距離 |
相手の表情が読み取れる空間。 |
45 - 75 cm 相手を捕まえられる距離。 |
75 - 120 cm 両方が手を伸ばせば指先が触れあうことができる距離。 |
社会距離 |
相手に手は届きづらいが、容易に会話ができる空間。 |
1.2 - 2 m 知らない人同士が会話をしたり、商談をする場合に用いられる距離。 |
2 - 3.5 m 公式な商談で用いられる距離。 |
公共距離 |
複数の相手が見渡せる空間。 |
3.5 - 7 m 2者の関係が個人的なものではなく、講演者と聴衆と言うような場合の距離。 |
7 m 以上 一般人が社会的な要職にある人物と面会するような場 |
対人関係での距離の取り方には、親しさや親密さが大きく関係するので、コロナ前は好意や敬意を感じる相手とは距離を縮めることを自然と行っていたが、この距離の取り方がリセットされたかもしれない。
少なくとも、コロナはこの距離観を大きく変化させているのは間違いない。
実際に自粛が解除された時に、改めて気付くかもしれないが、薄々想像してる人は大勢いるはずだ。
リアルな空間での距離に生理的な障害が生じたとするならば、ネットや仮想の世界へのさらなるシフトは避けられないのかもしれない。
ところで距離の問題は、リアルな空間で物理的な課題として顕在化してるだけでなく、仮想空間でも土足で踏み込んではいけない領域を顕在化させている。
発言にも距離が関係していて、その距離観には時代の空気が関係してそうだ。
岡村隆史さん“風俗発言炎上”で大バトル 擁護派、批判派、どっちも賛同できません!
〜〜以下引用〜〜
コロナ前に収録したと思われるテレビ番組を観ていると、心が勝手に「うわぁそこ近づきすぎ~」「散らばって!」とざわざわしてしまう。コロナウィルスが無事収束したとしても、この感覚だけはずっと残ってしまうのではないかとふと不安になります。
以前は何も感じなかったことが、今はとても気になってしまう。昔は何も考えずに楽しく観ていたバラエティ番組をあらためて観てみると「これはない」とドン引きしてしまったり。それは自分自身の変化なのか、社会の変化なのか。「昔のテレビは自由で良かった」という方もいますが、その「自由」というのは割と多くの人の「不自由」によって支えられていたんじゃないかなと思うとすごく怖い。ノスタルジーに酔いながら都合よく記憶の改ざんしていた方が、そりゃ楽だよなと思います。
〜〜引用ここまで〜〜
この記事の中で筆者は次のことばで記事をまとめている。
岡村発言の一番の問題点は「公共の電波に乗せてしまったこと」だと思います。
発言の内容やその真意が問題であるならば、問われるのは説明責任や、伝える技術の巧拙になるが、どうも問題はそこではなく、そんな話聞きたくなかったという人々に話が届いたことなのだ。
『話せば分かるはウソ』と著書“バカの壁”で養老孟司先生が言ったことが、ますます顕著になっている。
情報発信が誰でもできる今になって、当たり前だと思っていた言論の自由に対して急ブレーキがかけられているように感じられる。
敵は法律ではなく空気。
自分は正しい、間違っていない、そう思うことが間違いの始まりになり始めている。