言語明瞭意味不明なものに日本国憲法が保障する『文化的で健康的な最低限度の生活』がある。
このことばに振り回される人の多くは最低限度の解釈を巡って振り回される傾向が強く、その最低限度は天から降ってくるものだと思いがちで、ついでに言うと最低限度を金銭的な評価に置き換え不満を表現するために用いることが多い。
そして決定的に紛らわしいのは『文化的』の解釈だ。
現実的な話をすると、日本国が考える『文化的な最低限』とは、『生きたければ義務を果たせ』とほぼ同じ。
その解釈がすべてであるなら改めて考える意味も価値もないし、そもそも議論が噛み合わないだろう。
改めて考えたいのは幸せであるために最低限何が必要かで、この場合必要なのはお金だと考えることは論外とする。
お金は最終的には必要なものだが、最初は無ければ無いなりに始められるということが問われるからだ。
人間の悩みの99%は人間関係に収束する。
病気や健康や借金の悩みであっても、それは純粋に自分一人の悩みというわけではなく、関係する人間関係があればこその悩みだからだ。
文化的な生活のために必要なことは人間関係の上に成り立たない趣味や自分の世界を作ることだという仮説は成り立ちそうだ。
そういう趣味や自分の世界が作れた上で生じる人間関係があれば、気に入った人だけを受け容れることができる限り、楽しみを妨げる要素はゼロにはならないとしても最低限にできるはず。
いつの頃からか、それなりに業績の良い企業では現役社員が一緒に働きたい人を選ぶというスタイルになっているという話を聞くことが増えた。
実力重視と縁故重視の狭間で、仕事の効率に関する負の要素に人間関係が大きいことは知れ渡るようになった。
人間関係を上手く行かせたいなら、価値観が同じか似てることが重要で、そのためには文化度や文化的な背景が問われるのだ。
伝統的な企業における肩書だけベテランの社員が、現場のやる気を無くさせるのはもちろんの事、たった一人の新人がその他の社員をウンザリさせるという話も少なくない。
多様性の弊害は文化的な不一致を生みやすい。
文化とは持ってる価値観に左右されるが、多様性とは文化が違うことを意味する。
昭和生まれでタバコが嫌いで喫わない私にとって、長らくタバコは逃げられない存在だった。
どこもかしこもタバコを喫う人だらけだった。
健康増進法による禁煙の普及の結果、喫煙が悪になったおかげで令和の現在は昭和の頃には考えられないくらいタバコが目の前から消えた。
個人的には生活の文化度の質は大きく向上した。
今ではほんのちょっとタバコの臭いがするだけで怒りを感じるが、よく考えると昭和だったら考えられないくらいの好環境なのだ。
一方、私とは相容れない喫煙者であり且つ、自身の文化度に喫煙が絶対必要な人は頑なに喫煙派であろうとし続けるのだろう、価格がどんなに上がろうとも、喫える場所が減る一方でも。
文化に関係しそうな話としては次のようなものもある。
真偽は確認してないが、介護保険での買物代行を請負ってると思しき方が、『生活用品の中でお酒・タバコ・雑誌は対象外』と呟いているのを見た。
本人が直接買うのは規制されないがヘルパーが代わりに買ってはいけないらしい。
文化の解釈は確実に変化してるのだ。
文化の解釈の変化は文化度の変化でもある。
文化的な生活と言っても、人それぞれまるで違うことをイメージしてるはず。
そして、誰しも自分の方が文化的に優れていると思い込んでいるのは間違いない。
誰しもが平和を望んでいるはずなのに平和が遠いのは文化の違いに由来するのかもしれない。