必要なのに見当たらないものを探してる場合に、整理整頓について後悔や反省をすることが時々ある。
『あることは間違いないんだけどな〜』と思いながら、新しいのを買った方が早いかなと考え出すと、余計な出費が発生するストレスを感じることがある。
このようなことを考えていると映画監督の相田和弘さんの話を思い出した。
観察映画を撮る相田監督はシーンを細切れに撮影したりせずに連続的に何時間も撮影し続けるが、実際に撮ってる時におもしろいと思ってるシーンよりも撮ってる時には何とも思ってないシーンの方が映画に編集する際には重要だったりすることが少なくないと言っている、という話。
編集をスムーズに行うためには撮影した素材のどこにどんなシーンが撮影されてるかを丹念に見て別途ノートに書き出すことが最初の一歩になるが、この作業だけで数ヶ月かかることは珍しくないらしい。
その後、このシーンにタグ付けするように付箋に書き起こしてホワイトボードに時系列に沿って貼っていくらしい。
最終的に映画が出来るまでに撮影後一年以上かかることは珍しくなく、撮影時には重要だとは思わなかったシーンが実は重要だったということもまた珍しいことではないらしい。
細かくタグ付けするように分類してたからこそ、シーンの並び替えの面白さに気付くことも珍しくないらしい。
ただこの作業は結果的に時間はかかってしまうが、予定調和は一切なく新たな発見しかないらしい。
この相田監督の話と冒頭の話がどう繋がるのかというと、きちんとタグ付けして容易に検索可能な状態にしてないと、どんなお宝を持っていてもお宝をしまってる場所を思い出せなければ宝の持ち腐れに終わるかもしれないということ。
別にお宝ではなくても、必要なもの全般に当てはまるはず。
探してる情報がある場合、それが書籍であろうがウェブであろうが簡単に見つかるならどちらでも構わないが、情報の質に目を向けると多様な意見があるはずだ。
情報の新しさが大事ならウェブが有利だが、元ネタを求めているなら結局由来は書籍等の紙媒体だったということは少なくない。
ネット上には無限の情報があるが、多くはノイズのようなもので、検索して探すことは出来るが、自分が設定したキーワードにきちんと呼応するように情報にタグ付けがなされているわけではないので、求めてるものに出会えているとは限らないのだ。
わたしがイメージするタグ付けは、現在でもまだ文字のみに依存してる。
文字メディアだけでなく、映像メディアや音(音楽)メディアもたくさんあるが、その違いや差別化は文字を介してしかできないように感じられる。
もう少し正確にいうと、探し手が能動的に検索する場合は文字に依存する度合いは依然として高いが、受け身で受け取るパーソナライズドされた情報も現在では増えている。
タグ付けはするものだと思っていたが、パーソナライズドされるということは人間一人一人の側がアルゴリズムにタグ付けされてるということだなと気付くと、便利というよりも気味の悪さを感じる。
何を検索したかは今やその人の趣味嗜好や興味関心を示す立派な個人情報だが、その割には当人もあまり自覚がないかもしれない、しかし諺の一事が万事や二度あることは三度あるや歴史は繰り返すなどが思い出されると、相田監督の話のように全てのシーンにタグを付けるからこそ見える気付くことがあるのは間違いないのだ。
わたしにはどんなタグが付けられているのだろうかと想像するとゾッとする。