鴨長明が方丈記の中で元禄二年(1185年)7月9日に近畿地方を襲った文治地震を、
山は崩れて河を埋み、海は傾(かたぶ)きて陸地(ろくぢ)をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわほ)われて谷にまろびいる。
と、描写している。
2011年3月11日の東日本大震災の惨状を伝える映像で鴨長明のこの描写を思い出した人は少なくなかっただろうと言われている。
わたしは、この話を今知ったばかりだ。
東日本大震災の惨状を表現することばとしては鴨長明の描写は現代人にはあっさりし過ぎてるようで描写が足りないように感じられるだろう。
現代では多くを語らないと正しく伝わらないとされるが、多くを語ることは野暮や無粋と紙一重、そんな空気が日本や日本人や日本語には多い。
今では良く言われない空気を読んだり察する事は、多くを語る(語らせる)ことを野暮や無粋と捉える伝統文化のせいなのかもしれない。
空気を読んだり察するためには、一定水準の知識や経験が共有されるという共通認識が前提になる。
共通認識が多いということは価値観が限定的で狭いからこそ成り立つと言えるので、価値観が多様化すると、空気を読んだり察することは、かえって誤解やすれ違いにつながりやすくなるかもしれない。
正しく理解するためには多くを語ることが必要なのが現代だが、そのためのコミュニケーションが日本を舞台にして日本語で展開されてるならば、多くを語ることは野暮や無粋と常に紙一重でもあり続けることになる。
現代の身近な生活で例えると、見てる映画やドラマは実際に撮影された総時間を放送枠や上映枠に合わせて編集したもので、このシーンは短くしても意図どうりに伝わるだろう、このシーンは無くても問題ないだろうとカットされて出来上がる。
YouTubeに至っては、長いと見てもらえないから短くまとめるために不要と判断したらどんどんシーンをカットされ出来上がっている。
現代の動画編集における不要シーンのカットと、古来の日本語表現が避けた野暮や無粋は、イメージが重なって見える。
わたしだけでなく世間の方も、最近俳句に惹かれるのは、長文に野暮や無粋を感じるからなのかもしれない。
そこで少しはやってみようと思い捻ってみるが、
季語の壁 俳句のつもりが 川柳に
季語を盛り込むと、その分使える字数が減り、何も言えなくなってしまうのです。
だったら最初は川柳からだなとおもえると、世間の時事ネタやタイムラインの情報に反応することができる。
トレーダーに要求されることは「クール(冷静)」ということです。これがあんたらに欠けている。
— じっちゃま (@hirosetakao) 2020年1月30日
「嫌い!」「好き!」「許せない!」「激おこ!」「涙腺崩壊!」「感動が止まらない!」……四六時中、そういう激情に囚われている人は進歩の無い人。
クールな人に 踊らされる ホットな人
次のツイートぜひリプも目を通してください、おもしろいというか怖ろしい話です。
空港でコロナウイルス申告してきました。
— ソラシド (@admin0105) 2020年1月29日
中国で仕事してて、会社より帰国命令。
そしてさっき帰国しまして。
実は数日前から風邪気味。
腹痛や下痢症状もあり
「これはコロナウイルスかもなぁ」と思い、
空港で自己申告してきました。
「中国から帰国して、風邪のような症状がある」
→
コロナ🦠を 恐れぬ対応 怖ろしい
短いことばに言いたいことをまとめようとすると、ハードルが次々に出てくるが、少々形式を外れても、それらしきものになると、自分が気持ち良いことに気付きます。
俳句は少々ハードル高くても、川柳だったら気軽に始められるし、世間の時事的な出来事へのリアクションで詠めるのでハードルが下がります、ちょっとしたマイブームの予感です。
いつかは俳句をと…。
ぜひみなさんも楽しんでください。