違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

テレビは見た方が良い!?

ラジオで弁護士の紀藤正樹さんが次の件で話してるのを聞いた。

 

 

 

この件そのものはまだ審理途上なので特に特筆に値する話は出なかったのだが、もし有罪になった場合はこのような答弁をしてたことは罪の重さに反映されると言っていたが、中には意識を失って暴走させて事故を起こしたのに無罪判決まで出てるケースがある、という話が紹介されていた。

 

今日伝えたいのはそこではなくそこから派生した話。

 

テレビラジオなど各種報道で、高齢者ドライバーの運転ミスで起きてる事故が増えてることが散々伝えられて注意喚起されてるにも関わらず、事故が減らないように見えるのはなぜか、同じことは煽り運転にも当てはまりそうなのはなぜか、と話が進んだ。

 

 

紀藤弁護士は、この現象に『テレビを見ない』ことが関係してると言っていた。

 

紀藤弁護士は職務上感じてるのだろうが、『今は本当にテレビとかラジオを聞かない層が多いんです』と言っていた。

 

ここから先がわたしの意見。

 

おれおれ詐欺の類が発生し始めて、世間に認知され始めたのが2004年とされる、事件の手口や注意喚起が繰り返されても被害者が後を絶たないことも同様なのだろう。

 

 

テレビを見ない人が増えてるということはかなり前から言われるようになっていた。

 

テレビが面白くないからという理由が挙げられることが多く、テレビを見ないことは意識高いことだと思われることが多かった。

 

理由はともかく、ネットの普及とスマホの普及はさらに情報の取得に関して閉鎖性を強めているのだ。

 

テレビや新聞などの大手メディアが発信する情報には確かに癖があったり偏りがあるので解釈の仕方には注意がいるが、知っておいた方が良い情報が伝えられてるとは言えるはずだ。

 

 

情報の取得に閉鎖性が強い人の特徴が、SNSのそれもごく狭い範囲でしか情報を入手しないことで、この種の人は一般的なニュースにほとんど接することがない生活を送るらしいのだ。

 

このようなお年寄りがいて、車を運転する人の場合、これまで事故を起こしていなければ、あるいは事故とは言えない程度のちょっとした接触くらいで済んでいれば、自分の運転に疑問を感じることは少ないだろう。

 

日常的に煽り運転をしてる人が一般的なニュースに接してなければ、世間で煽り運転が警戒されてることに気付いてないのかもしれない。

 

 

日本人は一億総中流と言われて久しいが、当初は経済的な生活水準を意味していたこの言い方は、やがて知的レベルにも当て嵌められるようになっていて、それは教育水準や入手する情報に差がないことを意味していたが、現代はあらゆるところで格差が拡大してるのだ。

 

最近では総底辺という言い方も聞くが、日本人のメンタリティとしては『総』で括られると真ん中に位置したいと思うのかもしれないが、このメンタリティが治安や秩序の維持には効果的なのだ。

 

治安や秩序は、隣にいるよく知らない人でも自分と大差ない常識や価値観を持っていると思えるから成立する錯覚のようなものかもしれないのだ。

 

赤信号で止まってる車の運転手に対して、信号なんか無視して構わないと思ってる人は、俺の進路を邪魔するやつに映ってしまうかもしれない、その結果煽り運転が始まったとすれば煽られる側には全く原因が不明だろう。

 

 

治安や秩序は錯覚と紙一重であることをどこかで意識することが必要かもしれない、それと同時に人を見抜く目が必要になる。

 

理不尽な煽り運転の被害を後からドライブレコーダーで検証すると、ここから煽り運転が始まったというポイントは明確に分かることが多い。

 

正しいor間違ってるという尺度を使ってると、逆恨みには対処できないということは処世術として意識する方が賢明だろうなと思える。

 

そして、『テレビは見ない』と堂々という人がいたら、どのように情報の取得、中でもごくありふれた一般的なニュースをどのように入手してるかは確認した方が良いだろう、と思えてくる。