違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

コロナのことを考えていたらコックリさんを思い出した!

コロナウイルスが怖いのか、それとも情報のキーワードとしてのコロナウイルスを怖れているのか?

 

一度目の緊急事態宣言では街から人が消えたが、二度目の緊急事態宣言では街から人は消えない、そんな様子を見てると、これが空気の違いなんだろうなと思えてくる。

 

最初の緊急事態宣言の時は、その直前の志村けんさんの死が空気の形成に大きく影響していたはずだ。

 

 

GoogleTrends『緊急事態宣言』『志村けん』

 

 

この時は、コロナウイルスは突然人の命を奪う悪魔だという空気ができたはずだ。

 

有名人であり、超お金持ちゆえに、最高峰の医療が提供されたはずなのにという先入観もあっただろうが、コロナウイルスにはそれが通用しないという空気だったかもしれない。

 

 

それ以降の事態の推移をみていると、コロナウイルスは怖いのか怖くないのかが分かりづらい存在として認識されるようになった。

 

身近に、実際に付き合いのある知り合いが罹患しない限り存在そのものを疑問視するようになって当然だろう。

 

コロナはオカルト的な存在であり、祟りのようなものですらあるような気がしてくる。

 

もっと言うと、ある程度以上の年齢の方だと子供の頃に経験したコックリさんで悪いお告げをもらったような場合と同一視するかもしれない。

 

1970年代にはつのだじろうの漫画『うしろの百太郎』の作中でコックリさんが紹介され、少年少女を中心としたブームになったこともある。子供たちが学校などで面白半分に行うケースが多発し、その時代を知る人々は、「絶対にやらないように」と強く警告を発しているケースも多々見られる。生徒への精神的な影響もあり、教師が保護者を含めて厳重注意することもしばしばある。

 

 

表向きはバカにして信じないように振る舞っていても、内心はビクビクするような状態が共通してると言えるし、ビクビクの度合いが酷くなると実際におかしな症状が出て社会生活に差し障る場合も起きていたことを思い出す。

 

あれもやっぱり空気が作り出していた現象なのだろうか。

 

わたしが通っていた中学校では、授業が中断されてコックリさんが議題になった職員会議が開かれたこともあった。

 

コックリさんに祟られたと精神病院に入院する子が出ていたらしいのだ。

 

しかし、そんな職員会議の最中にも教室ではコックリさんが行われていて、突然泣き出す女子や急にオロオロする男子が少なくなかったことが思い出される。

 

当時クラスに必ずいたのが霊感の強い子でほとんどが女子だった。

 

突然震えながら泣き出した女の子を見て、霊感少女が『〇〇君(わたしのこと)、あなたの学生服をその子の背中にかけてあげて』と指示した。

 

わたしは、『学生服に悪霊が乗り移らないか?』と聞いたら、『ちょっと待ってコックリさんに聞いてみるから』と言い、コックリさんに聞き、『大丈夫だから、早くかけてあげて』と指示された。

 

当時のわたしは、半分疑問に思いながらも半分は信じていて、この空気の流れに抗うことはできなかった。

 

その後しばらく、学生服を着るたびに背中がゾクゾクしていたことを覚えている。

 

 

 

コロナウイルスが本気でコックリさんのようなものだなんて思ってないが、二つの空気があるのだ。

 

コロナを意識した行動を取れという空気と、コロナなんて関係ないという空気だ。

 

どっちが正しいのかは未来の人が判断するのだろうが、現代人は新たな空気を無理やりもう一つ作ろうとし始めている。

 

主に自主性に委ねられていた対応策に対して罰則が検討されている。

 

 

コロナ対策に罰則必要? 「ムード便乗危険」―私権制約に慎重論・識者ら  2021年01月18日

「国家が強い対応を取れば、社会の目も厳しくなる。それは良いことばかりでない」とも指摘。「悪いのはウイルスなのに、『自粛警察』のような店への嫌がらせや、感染者への差別を正当化するムードが生まれないか不安だ」と懸念した。

 

 

 

空気が作り上げた束縛から罰則での束縛へのシフトが起きようとしているのだ。

 

 

コックリさんが議題で開かれた職員会議と、コロナで右往左往する国会がダブって見えるのは私だけだろうか?