事件を報じるニュースなどでたびたび目にするのが、容疑者や犯人のことを『自称〇〇』と表現すること。
Yahoo知恵袋に次のような質問と回答があった。
知恵袋の回答者に自称〇〇と偉そうに職種を書いて回答する人がいますが、こういう人に限って全くの見当違いでまともな回答をよこしてきませんよね。知ったかぶりして何かを自慢したいのでしょうか?
いますね。回答文の最初に「不動産屋です」とか「電気屋です」とか「保育士してます」とか。いちいち言わなくていいから!と思いますよね。
ニュースで伝えられる自称〇〇を目にした場合の印象は、『自分の正体を隠そうと足掻いてるんだろうな』や『この期に及んでまだカッコつけようとしてるのかな』が多い。
また、日常生活の中ではホラ吹きや嘘つきの人を揶揄する場合に、小バカにするように名前で呼ばずに『自称〇〇』と呼んだりしたことはあるが、これは極めてレアだったように感じる。
バブル景気で日本が賑わってる頃、わたしはペーぺーの社員で、ある会合に部長のお供で同席したことがある、あるリゾート開発に関する会合で、列席者の中には都市銀行の取締役もいるような会合だった。
その場で、皆から会長と呼ばれてる人物がいて、胸には議員バッジと思しきものが付いていたので、『あの人何という名前の議員ですか?』と部長に聞いたら、『シーっ』と言われ、小声で『あれ偽物でそこは触れてはいけない』と言われた。
堂々とした表社会の最前線だと思っていた場は、結構嘘くさい胡散臭い現場だと初めて気付かされた時だった。
こんな出来事を思い出させてくれたのは、次の記事。
椎名林檎「自称クリエイター」を揶揄していた アルバム曲の歌詞に「佐々木氏の件を知ってから読むと...」
「自称クリエイターの唐突なじぶん語り」
「気温差やばい業務内容ともう関係ないじゃんよ」
「ドキュメンタリー番組映え」を意識することへの批判と思われる内容や、声の大きい人が嫌い、カリスマ性では人を救えない、
など辛辣な歌詞が綴られている。
渡辺直美さんの件に端を発した現場の実情を伝える、これぞThe日本と思える昔ながらの展開が感じられて香ばしい気がした。
自称〇〇の多くは詐欺的な展開で、何も持たない人間が、何かを持ってるように装う場合の展開で、学歴詐称や経歴詐称と共通する心理のなせる術だろう。
この世には、それなりの地位や知名度をすでに得てるはずなのに、それだけでは満足できずに自称〇〇を付け足したがる人の何と多いことかと改めて感じる。
多いというよりも、発覚した時の愚かさのインパクトが悪目立ちするのだ。
ビジネス上でも、いつまでも過去の実績のアピールが求められる。
ついつい自分を大きく見せたくなるのは、大きく見せないと入り口ではじかれるシステムが浸透してるからでもあるかもしれない。
未来に立ち向かおうとする場合に、過去の実績が武器になるはずないが、人間関係の中では、過去の実績は大義名分や免罪符として機能することが少なくない。
裸の王様の話と同じだなと思える。
裸の王様の話は笑うくせに、似たようなことは現実に繰り返されている。
自称〇〇や裸の王様が、発覚後に失脚することで、少しづつゆっくり日本は変わってると思いたいが、果たしてどうなのだろうか?
そういえば、今の日本の総理大臣は、総理大臣になりたての頃、自称苦労人と話題になっていたなと思い出されると、香ばしさが一層募って来る。