柔道家の古賀稔彦さんが突然亡くなられた。
享年53歳。
健康不安を伝える話もなかったので、まさに突然だった。
当初は死因も報じられなかったし、しばらくして癌で闘病中だったと報じられたが、癌の種類も伝わらず、私はもしかして真実を隠蔽しようとする何者かの意志が働いているのではと邪推したりしていた。
その後、約1年前には片方の腎臓を摘出していたとも伝えられた。
最も衝撃的だったのは、実の母親が息子が闘病中だったことを知らなかったことだ。
コロナ禍の1年であったことや、心配させたくないから伝えないでという思いだったのは、それなりの回復へのモチベーションの高さがあったからでもあるだろう。
私のような外野の一般人ですら、第一報を目にした瞬間は『えっ、どういうこと?』だったが、実のお母さんも立場は同じだったことが心苦しい。
思い出したのは、今から20年くらい前に聞いたことばで『死はいつでも突然』というもの。
余命宣告されてるような人ですら、死は突然なのだという話。
医療や看護や介護の世界の人の間では共有されてる考えだと教えられたことがある。
だからこそ、いつもと同じように振る舞うことに価値があるし意味があるというふうに受け取っていた。
逆にいうと、改めるべきがあるならば、ゆっくりでもいいから確実に改善することに価値や意味があるとも感じていた。
そう感じたことは覚えているが、それで生き方が変わったかというと決してそんなことはなかった。
昨日、一昨日とスマホ脳を読んで、そこに書かれてある生活する上で意識して避けた方が良いこととされることは、死は突然だと分かっていれば、まるで興味が湧かないだろうことばかりのはずだ。
一言で言うなら、スマホの使用を減らせば良いだけなのだから。
死はいつでも私たちの目の前にあるんだと意識できれば、やれと言われてもやりたくないようなことを、やるなと言われてるのに夢中になってやっている、それが現代人の姿に見えてくる。
古賀稔彦さんが53歳で突然亡くなられたことにインパクトを受けてる人もいれば、10代20代だと交通事故を報じるニュースと大して違わないとすら感じているかもしれない。
私が今10代20代だったら間違いなく退屈なニュースにしか感じなかっただろう。
そういえば、以前『明日死ぬかもしれないと思って生きろ』というようなフレーズが流行ったことがあったなと思い出した、自己啓発的な何かだったような気がするが、私には全く響かないことばだった。
虎は死して皮を留め、人は死して名を残す
という諺があるが、古賀稔彦さんの死で、ちょっと違うかなと感じている。
人は死して、生きることの意味を考えさせるのではと感じてる。
もっとも、死ぬのが誰なのかでまるで反応は違うだろうが。
特に柔道に興味があったわけでもないので古賀稔彦さんにも特に思い入れがあったわけでもないが、なんだか考えさせられる出来事になっている。