違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

大津の園児死亡事故で思ったこと

不幸な事故や事件が起きると、何も起きないことがいかに幸せだったかを思い知ることになる。

 

 

このコメントから一部を三つ引用します。

 

この三つは、突然の理不尽な不幸で家族を亡くした方に共通する思いです。

 

 

わたしやあなたに、同じ種類の不幸が訪れたら、きっと感じるであろう気持ちです。

 

 

 

 

私共家族としても、家族5人で苦楽を共にし、普通に過ごせると思っておりましたので、今回、娘優衣の突然の逝去に関しては驚きを隠せず、現実とは思えませんでした。

 

 

突然起きることには、心の準備ができないのです。

 

 

 

 

今自宅で、話をせず、いつも明るく、いたずらっぽい笑顔も見せることもなく、ずっと寝ている娘を見ていると、徐々にではございますが、私共としても娘の死を受け入れざるを得ません。

 

 

家族(特に小さな子供)を亡くすと、自分の一部が無くなったような気がすると言われます。

 

寝息も立てずに寝ている姿を見てると、あったはずのものが無くなったと、しかもそれは自分の内側に存在していたのだと気付かされるのです。

 

 

私共としても安らかに娘を旅立たせようと思っております。優衣は2年10ヶ月しか親より愛情を受けておらず、最後に私共夫婦・姉弟よりたっぷりと愛情を注ぐ式にしたいと思います。

 

 

おそらく残された家族は自責の念を感じてるのでしょう。

 

もっともっと愛情を注いでいれば、この事故は防げたかもしれないとすら思っているかもしれません。

 

そうとでも思わなければ心のバランスが取れないからでしょう。

 

 

 

 

強烈な不幸ですら時間が解決すると言われる。

 

時間をかけるとどんな不幸ですら薄らいでいくという意味だと、わたしは思っていた。

 

 

しかし、今回強く感情移入してこの事故に想いを馳せると、残された家族は、動かなくなった姿を再び動かすためにエネルギーを費やすような気がする。

 

 

天国に行って幸せなはずだと思ったり、生まれ代りで別の人生がスタートしたりと考えることで、形は違えど生き続けているんだと思うことで、『終わったのではない』と解釈したり。

 

 

あるいは、同じ種類の事故を繰り返さないための活動に尽力することで、常に亡くした子供と一体で行動したりということもあるだろう。

 

 

いずれにしても、時間が解決すると言う場合、克服したいのが大切な人の死のショックやそれに伴う喪失感ならば、記憶を薄くするのではなく、その姿を生き続けさせることになるはずだ。

 

 

 

このように考えると、犯人を憎むというエネルギーは、被害者が心を回復させるためには、ピント外れな行動になるかもしれないと思えてくる。

 

 

余談

 

このような悲しい事件の場合、憎むべきは犯人よりも取材するマスコミだと言われ、今回も典型的に当てはまっている。