YouTubeで少し前(と言っても数年前)に検索した時には、ほとんど何も出なかったミュージシャンの曲が久しぶりに検索するとたくさん上がっていた。
ライブ音源なども多数あり、コンテンツは一気に充実するなと思ったが、何気なく見たコメントにありがとうという文字が多いのでよく見ると亡くなられていて、それをきっかけに音源を持ってる方達が一斉にアップしていたのだ。
突然表舞台から消えるミュージシャンは珍しくないが、それが大好きな人だったら、ずっと魚の小骨が喉に刺さったままのような感じが残るが、久々に接した情報が訃報だとしんみりとさせられる。
ただ曲を知ってるだけだったのだが、そのことが一期一会に近かったのかなと思えてくる。
一生に一度だけの機会を一期一会と呼び、その由来は茶道の心得で今でいうおもてなしに近い意識とされる。
字面からは、人との出会いに使われる印象が強いが、素晴らしい人間関係は継続の上に成り立つとするなら、一期一会は人間関係には当てはまりにくい。
一期一会とは、再現性がないから成り立つことであり、かつその瞬間や最中にはそれが一期一会だとは気付けずに、後から振り返って『あれは一期一会だったんだ』としみじみ思うもののはず。
わたしは、これまでに二度の一期一会を経験している。
どちらも風景であり景色への感動だった。
出会った時には、再現性があると感じるので、必要だと感じた条件をリストアップし、その条件を満たすタイミングを狙う。
しかし、どちらも再現できなかった。
景色や風景は大して違わないはずなのに、受ける印象はまるで違う。
このような経験を何度かし、数年経ってふと『あれは一期一会だったんだ』と思うようになる。
わたしの場合、二度の体験はどちらも全く予期してないタイミングで出会ったものだった。
最初の一期一会はただの風景で知識は持っていたが、初めてであり突然だったから感動できたように感じてる。
二度目の一期一会は、人が織りなす街の景色だった。
街にいる人全員の気持ちが一つになったかのような気持ちになれたことがあった。
どちらも条件が満たされてほぼ同じ状況が再現されても、もう感動は得られなかった。
一期一会のために必要な条件を強いて挙げるならば、期待しないことであり予期や予想をしないことだろうと感じられる。
現代人は、何事も事前に情報を収集し、予定や計画を立てることが多いが、そのことが感動を減らしているのだと思える。
感動の頂点が一期一会にあるとするならば、行き当たりばったりも悪くないかもしれない。