インスタグラムをやっている10代の70%が自分の容姿に自信が持てなくなると答え、世界で20億人がやってるFacebookの場合は約3分の1の人が知人の投稿に嫉妬を感じてるという、スマホ依存と呼ばれる症状のほとんどの原因はSNSで、もちろん原始的な電話やメールも広義のSNSになる。
利用してる人の多くが、喜んで使ってると思われているはずなのにだ。
このことを知って思い出したことがある。
携帯電話(スマホ以前)の普及し始めの頃のことを。
出先や外出先で連絡を取る必要がある場合は、公衆電話を使うしかなかった。
この場合の必要とは、当事者にとっては緊急性が高いことで、早く伝えたい、早く聞いてほしい何かがあった場合で、もちろんただ声が聞きたいという場合も含む。
この当時は、かける側の電話の近くが現場だったのだ。
携帯電話の初期にはポケットベルもあったが、これは携帯電話に含めて考えたい。
携帯電話は贅沢品だったが、料金が下がり始めた96年頃から社員に持たせることが増え始めて普及し始めた、と記憶している。
私を含めて当時の周りにいた同僚や知人の多くは、会社の指示で自腹で仕事用に携帯を契約させられていた。
この当時のことをはっきり覚えてる。
便利になるという思いは全くなく、どこまで追いかけて来るんだという管理される不快感しかなかった。
携帯電話の登場は、電話を待つしかなかった受ける側を大きく変えたのだ。
現場で起きてる途中経過や結果を素早く知ることができるようになったのだ。
良い話や吉報よりも、そうでないものの方が情報として増えたように感じられた。
情報の共有は素早くできるようになっても、現場で起きてる問題が素早く解決するわけではなく、問題解決に向けては結局対面での確認や話し合いが必要なので、コミュニケーションのすれ違いというストレスを増やしただけのようにも感じられる。
初期の頃に救いとなったのは、電波が通じないエリアが都市部でもかなりあったので、電源をわざと切っていても『電波が届かなかったんじゃないですか』という言い訳が通用していたが、こんな時期は長続きしなかった。
携帯電話の普及期は、仕事やプライベートの自分に関することがいつでもどこでも相互連絡が可能になったことでストレスが増大していたのだ。
そして時が流れ現代に至ると、SNSを通じて多くの人が実際には知らない人と繋がり始め、直接自分に関係ない話にも関わるようになることが当たり前になった。
少し前までだったら、知ることすらなかったであろうことを知り、さらにそのことに関して意見を言ったり聞いたりすることが当たり前になったのだ。
もちろん大前提としてそれを喜んでやっているのだが、そのことによって新たなストレスが増えているのだ。
ストレスだという自覚すら伴ってないかもしれないが、確実に身体と心を蝕まれている人は増えているのだ。
人間が感じるストレスの多くは、悪い噂話やゴシップを知ることがきっかけだったりするが、人間は本能に近いレベルで悪い噂話やゴシップを求めると言われている。
DNAや脳の原始的な部分には、昔から脈々と受け継がれた経験や思考の試行錯誤の歴史が残っていると言われる。
ゴシップや悪い噂に反応するのは、処世術やリスクマネージメントとして有効に機能した歴史が長かったからだと考えられている。
現代では、悪い噂話やゴシップは悪しき村社会の名残のように感じられるのは、リスクの種類が変わったからだ。
昔のリスクは、すぐに死に直結するものが多く、時代によっては死の1割から2割は殺人だったのだから。
悪い噂は、それが今でいうゴシップであっても、巡り巡って安全や平和を脅かすものに発展するケースが珍しくなかったのだ。
そう考えると、私たちがゴシップに惹かれるのは本能に近い反応だと理解できる。
ゴシップに反応する自分を恥じたり責めたりすることは、無用なストレスをさらに抱えることになるのかもしれない。
表面的には進歩であり便利に感じることの多くは、この数十年それを遥かに上回るストレスを作り出していたといえそうだ。
このように考えると、ゴシップはもちろん詐欺やフェイクは永遠に不滅だろうなと思えてくる。