対立の体を取っていても共に切磋琢磨しあう関係はライバルと呼ばれ、時には目標や目的を同じくする。
一方で、対立は敵対を意味する場合も少なくない。
戦争のような問答無用な対立は論外として、あくまでも競争の範囲に留まる話として。
そのような対立は、同じ土俵でルールや法律に則った範囲で勝ち負けを競い、大人の憎しみ合いという展開を見せる。
大人の憎しみ合いのお約束は、決着が付いたらノーサイドで恨みっこなしで、子供も従う。
とは言え、時にはルールや法のスレスレを狙う。
社会の中では、そのような対立には、次のようなものがある。
右翼vs左翼
保守vs革新
保守vsリベラル
資本家vs労働者
経営者vs従業員
他にもいくらでもある。
対立関係を定義し表現することばが出来上がるだけで対立は顕在化し鮮明化する。
対立する場合の競争が高度化するとその武器は、情報でありデータであり、さらにその分析になる。
まるで病名を付けるとそれだけで症状を訴える人が現れることとよく似てる。
最初は症状を整理してまとめたのが病名だったはずだが、医学や薬学の最先端がビジネス化すると新しい病気を作ることに夢中になりやすくなるのだ。
対立の程度がどうであれ当事者になると、それはお互い自分ごとだから必死で一生懸命になるのは当然だが、当事者ではない周りの傍観者も夢中にさせる力が強くなる。
傍観者は観客というよりも疑似体験をすることになり、まるで自分が当事者であるかのように感情移入してしまうのだ。
どんな人だって上記のまる子と大差ないとするならば、そしてその根底に対立意識があるならば、本来だったら味方同士になりそうな関係性の間でも起きるだろう。
正義(善)vs 正義(善)
悪vs悪
そして、あろうことか現代では大きな割合を占めるようになっているのが、
自分vs自分
昔から『自分の敵は自分』とはよく言われていたが、それは自分のことが一番分かってないのが自分だという哲学めいた意味だった。
しかし現代の『自分の敵は自分』はちょっと意味合いが変化している。
自分のことを嫌な形でデータ化されることが何かにつけて増えたからだ。
誰でもどこでも自分の知らないうちに撮影されて録音されてるだけでデータとしての自分が浮き彫りになり始める。
部分を切り取られることは、一つ一つは嘘ではないはずなのに位置情報なども含めて一繋がりにされると『それは違う』と言いたくなるような自分が浮き彫りにされる。
それに加えてさらにスマートウオッチなどで自分に関する身近なデータの取得が容易になったことと、取得できる自分データの変遷や移り変わりが可視化されることで、自分で自分に納得したり失望したりを繰り返し、自分を叱咤激励するうちに自分の敵が自分に、よりなりやすくなったように感じられる。
この流れは今がピークなのか、それともさらに加速するのだろうか?