4月7日の記事だけど今朝Twitterで見て、『なるほど!』と思わされた。
頼んでもいないのに、あれや、これやと教えてくる…あなたの近くに、そんな“教え魔”いませんか?
もしかしたら、私も“教え魔”になっているかも…?
ボウリング場に掲示された1枚の張り紙をきっかけに「人に教える」ために必要なことは何か、考えました。
検索すると、こんなものも出てきた。
初心者らしき人を見つけてはコーチングしたがる「教え魔」。彼らは悪意があってなるわけではない。
— BLOGOS (@ld_blogos) 2021年4月22日
孤独を嫌い、自分に友好的なだれかとの関わりを求めているのに、傍らにはいつも孤独がある――そんな人がいつの間にか、本人も気づかぬうちに「教え魔」になってしまうのだ。https://t.co/yXIWEreShj
これらの話は、別のもう一つの話とリンクさせることでおもしろさが増す。
『なぜ勉強が必要なのか?』だ。
人それぞれの答えがあるだろうが、私の答え(あくまでも自分自身に向けてのもの)は、全く知らないことに関しては勉強したくてもできないから。
勉強してないと、検索すらできないからだ。
そういう意味では、なんでも構わないが、知りたいと思う最初のキッカケとの出会いは重要だ。
勉強以前の知りたいという気持ちと、知らない人に教えたいという気持ちは対をなす関係のようにも感じられる。
しかし、これまた厄介ことに、他人から一方的におせっかい的に教えられたことの多くは鬱陶しいだけだったり、逆に、教えられた通りには絶対しないぞという気持ちにすらさせられることがある。
世間に出回る情報の多くは、ほぼすべてと言ってよいくらいかもしれないが、教える、知らせるものばかりだ。
ニュースや報道にワイドショー、広告宣伝や告知、遊びや趣味を含めて生活やビジネスその他、文字やことばを介して行われるコミュニケーションは、ほぼすべて教えたり知らせるものばかりなのだ。
このような場合、その情報を誰が発信しているのかが問われる。
この誰がの部分が、21世紀に入ってからは大きく様変わりしている。
あるドラマでこんなセリフを聞いたことを思い出した。
国会議員のことばで、
『先生と呼ばれる職業はたくさんあり、先生には教えてくださいが求められるが、国会議員だけは儲けさせてくださいが求められる』
ちなみに、脚本は古沢良太さんで、伏線の張り方が巧みな脚本家。
教え魔とは、関係性が出来上がってないのににわか先生を演じているのだ、関係性には信頼関係も含まれるので、職業としての先生であっても関係性の成立がなければただの教え魔だ。
逆に言うと、教わる側の受け止め次第なので、相手は職業としての先生である必要は全くない。
現代では、教わるなら成功者からだと思ってる人が多いだろう。
しかし、成功者の定義は曖昧で、ただ単にお金を持ってるだけの人だったり、単に外見が美しかったりカッコいいだけの人だったりすることも多い。
ダラダラ書いたが、このような反応は、DNAや脳の深層部に太古の昔から脈々と受け継がれた原始的な反応に思える。
生き続けることは、知り続けることだったはず。
知り続けることは、教え続けることとセットだったはず。
現代人は、現代的な理屈で武装しがちだが、原始的な反応に縛られているようにも感じられる。
おそらく、すべての人が教え魔的なDNAを持ってるとすれば、教え魔は増えこそすれ減ることはないだろう、ただ教え方の形態は変化するはず。
結局、最後はコミュニケーションの問題になりそう!