社会学や統計学に興味がある人だったら、世の中に原理原則があるならば、それを知りたいし見つけたいと考えるはず。
その原理原則さえ分かれば、望むことの実現性が得られるだろうし、過去の成功体験の再現も望めると考えたくなるだろう。
一方で、起きた出来事に対してはいくらでもその理由は示すことが出来ても、その出来事の再現をコントロール出来るかと問われたら、実際に再現出来るのは簡単で単純なことに限定されることも、どこかで分かりきっている。
余談だが、こういうことに気付くと学生時代に勉強するなんて最も簡単なことだったのになと後悔する大人は多いだろう。
偶然を必然にすることができると再現性が高まる。
偶然や必然を数字に置き換えて扱うのが統計学だが、数字を扱う統計の解釈にはなぜだか心理学が介入しがちだ。
逆にいうと、厳密なはずのつもりの統計には小細工が付きものだ。
数字を語ってるはずなのに、途中から形容詞で議論してたりする。
厳密であろうとすればするほど曖昧になることはたくさんある。
そんな時、日本だと根性論が出て来やすくなる。
曖昧さが作り出す隙間を埋めるのに持って来いなのが根性論で、足りないのは根性だとされるのだ。
つまり、再現させるために足りないのは根性だ、という処理の流れが出来上がる。
こういう処理の流れを、頭や理屈では否定するが、全体の空気は肯定しがちになる、日本では。
だからこそこんな記事も出る。
コロナウイルスよりも怖い「誰かを悪者にして溜飲を下げる」という心理 次は「GWに遊びまわる若者」が標的か
出る杭が打たれるというよりも、打ちやすそうな杭を求めてると言った方が相応しいかもしれない。
そして、ここでも日本ではという注釈が必要になるが、このような処理の流れを政治が利用してるのかもしれないと思えてくる。
政治家、中でも与党の執行部は、国民の総意が一致して特定の政策に向かうことを一番恐れているのかもしれない、そうなったら本気で死ぬ気で頑張らなければいけなくなるから。
それよりも、頑張ってるように見せながら楽をするために、国民の意見や価値観が分裂して一つの大きな民意にならないようにさせるために行動してるのかもしれない。
報道的には大きな民意に見える出来事でも、政治家目線で見ると桁が小さいのかもしれない。
ほっとけば自然消滅したり空中分解するだろうと。
そう考えると、日本の政治に関して感じるなぜ?が、なぜ?とならなくなる。
この納得感は、偶然なのか必然なのか、そしてどの程度の再現性を秘めているのか?
病床が増えない理由を聞かれて「平時になったら法律を作りたい」と言い放った菅首相には心底呆れる。
— 大神ひろし (@ppsh41_1945) 2021年4月24日
コロナ流行という非常時だからこそ多くの病床が必要とされているのに、平時になってから法律を制定するようでは遅すぎるだろう。
菅首相にはコロナ流行に対応する能力が無いんだと改めて確信する。
仮説を立てたり、想像することは、原理原則に気付くためには必要なのだと改めて気付く日曜の朝だった。