違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

2021年6月3日のGoogleのコアアップデートで気付いた変化

サイト運営者やブログをやってる人が一喜一憂させられるのがGoogleのコアアップデート。

 

実際にGoogleがなにをやっているのかはよく分からないが、検索のされ方が変化するのでPV(ページビュー)に影響する。

 

PVの変化はビジネスでサイト運営してれば死活問題だし、個人運営だからとたいして気にしてないつもりでも、いつもとPVが大きく変化すると『一体なにが起きたんだろうか?』と気になるものだ。

 

このブログも過去のコアアップデートでPVは10分の1くらいまで落ちてそのままで推移している。

 

今回のコアアップデートでもきちんと分析すればこのブログにも変化は起きているのだろうが、気にしてもしょうがないし、今のところ気になるほどの変化は起きていない。

 

 

ところが、ひょんなことから大きな変化が起きていることに気がついた。

 

変化は、このブログに起きていたわけではなく、私の検索環境に起きていた。

 

 

私はこの10年以上ある二文字を使って定点観測的に検索していることがあった。

 

定点観測などと言ったら大袈裟で、実際には単なる趣味嗜好でだが。

 

下ネタやエロに関する話なのでその二文字が何かは恥ずかしくて書けないが、シンプルな検索だったからこそ起きた変化に感慨が大きいのだ。

 

ただ、この二文字での検索は定点観測になっていたんだなと今思い知らされている。

 

 

昨年ごろから、Googleは次回のコアアップデートではUX(UserExperence)を改善させると宣言していた。

 

 

<参考>

2021年Googleアルゴリズム・アップデートは、UXが鍵になる!

 

 

これを読んでも、具体的になにが起きるのかはわたし如きにはチンプンカンプンだった。

 

 

過去のコアアップデートではわたしの二文字の検索環境には違和感を感じる変化は起きていなかった。

 

起きていて納得していた変化は、その時々での気分でアクセスするサイトには違いがあったので、アクセス頻度の違いが表示順位に反映されるというパーソナライズを感じるくらいだった。

 

逆にいうと、パーソナライズは日々更新されてるのだなと感じられ『ご苦労さま』という気持ちだった。

 

 

そういえば最近二文字の検索をやってないなと気付いてやってみると、第一印象は『???』だった。

 

見たこともないサイトが羅列されていた。

 

アクセスしたことがないだけでなく、見たこともないサイトばかりが並んでいた。

 

数十ページ順位を下げていっても見たことないものばかりだった。

 

『俺はなにを間違ったんだ?』と思ったが、確認してもいつもと同じことをやってるだけだった。

 

再起動してみたが結果は同じだった。

 

明日になれば元に戻るかなと思ったが、翌日も同じだった。

 

この辺りから、『ああ、これはコアアップデートでの変化なのかな』と気付いた。

 

これまで経験したことのない変化だったが、当然ながらわたしがアクセスしていたサイトが無くなったのではなく、単純に順位を大きく落としているだけ(もしかしたらGoogleから排除されてるだけでブラウザを変えると簡単に上位表示されるかもしれない)なのだ。

 

お手軽にアクセスできなくなると、別にどうでもいいやと思えてきた。

 

このような変化が世間の至るところで分野問わず起きているのだろう。

 

見えないものは無いのと同じなのだ。

 

 

 

 

わからないことは辞書を引けと言われて育った世代にとっては、キーワードで検索するいわゆるググることは自然に受け入れられるが、知りたいことにアプローチする手段としてのググることには限界が訪れているように今回のコアアップデートで感じられた。

 

数年前から#(ハッシュタグ)での検索がTwitter界隈から出てきたが、時々使っていたが今ひとつピンと来なかった。

 

しかし、ググることに限界を感じ始めたら、#や広い意味でのタグ付けという検索や発信は身につけた方が良いのかもしれないと思った。

 

 

そう思っていたら今朝のモーニングショーでググるよりもタグるという特集をやっていた。

 

 

 

 

 

ググる年寄り、タグる若者という対比で語られやすいが、両方使えて一人前と捉えた方が良いかもしれない。

 

 

改めて考えると、わからないことを紙の辞書を引いて調べる人は今どのくらいいるのだろうか、辞書に書いてある定義は『昔はこうだった』という定義にしか感じられないという人は多いのではと思えてきた。