Twitterで次の話題が流れていた。
「だからどこもタイトルが似ている」ネットメディアが"見出し詐欺"に使う5つの手口
インターネットの見出しはいかに読んでもらうか、シェアしてもらうかという観点から発展してきました。その到達点が人の感情にアプローチして、喜怒哀楽を揺さぶり、何か読まないとまずいかもと思わせる手法であると言えるでしょう。
これを読んで思い出したのが、インターネットなんてまだ全然普及してない頃に、『お客は自分が欲しいものをわかっていない』と盛んに言われた時期があったなということ。
『どんなものが欲しいですか?』、『あったらいいなと思うのはどんなものですか?』、このような問いに対する答えを総合して開発された商品やサービスのほとんどはまるでヒットの兆しすら見せずに市場から消えてた頃に言われていたのだ。
当然のように、正反対の価値観である『作り手が思いを込めて開発するしかない』が注目されるのだが、実際に売れなければいけないというプレッシャーは相変わらずだった。
上記の記事には次のようにも書いてある。
数字を取るために必要な感情を揺さぶる技術は、見出し論争に集約されています。新聞の見出しは内容を端的に説明する見出しです。記事を書く部署と見出しをつける部署は分かれていて、最終的な見出しの決定権は見出しをつける部署が持っています。彼らの熟練の技は、記事を全文読まなくてもわかる見出し、つまり要約されている見出しをつける技術にあります。ところがインターネットではこの手法は不向きです。中身を読んでもらわないといけないのに、「要約」されていては誰も中身に興味を持たなくなってしまうからです。
自分が何を欲しているかを十分に理解できてない客に買わせるためには、商品の魅力や良さのアピールが王道だが、それだけだとただの要約で終わるのかもしれない。
特に思い入れがなければ、探せばもっと良いものがあるかもとなり、買わなくても良いやとなるのかも。
最近のヒット商品は、良さや魅力が分かった上での指名買いや、ブランドそのものが目的だったりの場合が多く、象徴的なのがApple製品だろう。
Apple製品の場合は、製品としての魅力や完成度も高いが、そんなこと全く関係なくブランドとして買ってる人の方が多いように感じる、これが指名される強みだが、世の中に存在する多くの商品やサービスは指名とは縁遠い存在がほとんどのはず。
新聞記事の見出し展開は指名を受けてる場合に有効だが、ネットメディアのように指名を受けてるというよりは通りすがりの出会いのような場合には、もっとゲスなアピールじゃないと有効ではないと考えるとしっくり来る。
つまり、ネットメディアを始め、ブランドになりきれないものは、売るためにはナンパに勤しむしかないのだ。
この場合のナンパは、異性であるか同性であるかや年齢など一切関係ないという意味では、むしろナンパというよりも魚釣りの方が近いかもしれないが、相手は魚ではないので餌として見出しやタイトルにエネルギーを注ぐのだ。
なんでこんな見え透いた見出しやタイトルに惹かれるのだろうかと思うことは誰でも一度や二度ではないはずだ。
わたしも自己嫌悪を感じるくらい反応することがあり、内心悔しいけど『ここにオレのツボがあるんだろうな』と認めないわけにはいかないことがある。
しかし、そのことをしっかり意識すると少しずつ遠ざかることはできる。
一時期、幻冬舎メディアのタイトルに反応しては自己嫌悪する自分がいたが、最近ではタイトルを見ると『幻冬舎じゃないか?』と感じ、よく見ると『やっぱり幻冬舎だ』ということが増え、中身は見ないようにできている。
今でも反応はしてるのだが、意識すれば釣り針は避けられるのだ。
ネット上では以前から、うっかり反応するように仕掛けられることを釣りと呼んでるが上手いこと言ったもんだなと感心できる。