違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『技は盗め』としか言いようがない

昔の職人は『技は盗むものだ』と言った。

 

わたしは長いことこの意味をネガティブに捉えていたが、最近になってポジティブな意味の方がより当てはまるのではと思うようになってきた。

 

 

手作業の職人技は、できる人にはできて当たり前で、できて当然以外の何者でもないが、それを教えるとなると、そもそもなぜ自分ができるのかもよく説明がつかないだろう、せいぜい繰り返し練習したとか技を盗んだとしか言いようがないのだろう、と思っていた。

 

 

翻って現代は、世間にはなんと教えたがる人が多いのだろうかと驚くくらいだ。

 

そんな教えたがる人は、達人芸や名人技を持っているかというと、技や芸を持ってるというよりも、ただ有名なだけという場合がほとんど。

 

有名なだけの人は何に支えられてるかというと、膨大な教えてもらいたがる人が織りなす市場だ。

 

人生100年時代で死ぬまで学習という標語すら出てきてる。

 

 

教えたがる人と教えてもらいたがる人の関係は、本を書いたり出版する人と本を買う人の関係にとてもよく似てる。

 

 

 

大きな本屋に行って、ジャンルを問わず並んでるタイトルを見てると、『これらのほとんどは教えるために書かれてるな』と思える。

 

では、本を物色してる人は、自分が求めてるものをどのくらい理解してるのだろうか?

 

電子書籍やネット売買が普及し始めると、最初から買いたい本が決まっていて指名買いする場合にはとても便利になった。

 

しかし、他人や世間の評価とは関係なく、おもしろそうな本はないかなと探したり、ピンポイントで知りたいことにズバリ答えてくれるような本を探したいと思ったら、現物を見れなければ判断できない、レビューや書評では役に立たない。

 

そういう本は、同じ箇所を何度も読み直したくなるので立ち読みしたくらいでは満足できないので結局買うことになる。

 

一回読んだらそれで十分という本は、たぶん買うに値しない、最近はそういう本ばかりに思える。

 

 

つまり、教えたがる人が教えようとすることの多くは、繰り返し聞くには値しないものがほとんどというのが現代なのだ。

 

 

 

上手に教えてくれる人や指導してくれる人がいると自然と成立するのがその学習の成果。

 

しかし、同じ教えや指導を受けても、人によって上がる学習の成果は異なる。

 

教わる側の能力の差だと思われがちなこの違いは、同時に教える側の能力の差も影響する。

 

教える側にとってもっとも重要なことは、分からない人やできない人が、なぜ分からないのか、なぜできないのかを見抜けること。

 

教わる側が躓くのは、教える側にとっては教えるまでもないと思うような点であり、教えるまでもないと思うのはすでに理解していて当然、できない方がおかしいという思い込みができているから。

 

 

人それぞれ、思考には癖がある。

 

教える側にも教わる側にも思考の癖はあり、その癖に対しては無自覚で無意識。

 

思考の癖は、価値観に影響するし、巡り巡って感情にも影響するし、運動能力にも影響してるはず。

 

感情的な反応は脊髄反射だと思いがちだが、意外と思考の癖の反応というのも多いはずで、先天的要素だと思い込んでるものにはかなりの後天性が潜んでいてもおかしくない。

 

 

何かを知りたい、何かを学習したい、何かをできるようになりたいと思うならば、自分の思考の癖を味方に付けなければいけない。

 

もし、教えや指導を請うならば、自分の思考の癖に寄り添ってくれる人との出会いが重要で、それが叶わないならば独学しかない。

 

 

独学の比重が大きくなればなるほど『技は盗め』としか言いようがなくなる。

 

教えたがる人ばかりの現代で良い指導者に巡り会えるのはよほどの強運の持ち主だけで、そんな人ですら最後の最後は独学以外では壁を突破できない。

 

 

肝心なのは、どのように技を盗むかだが、そこは自分の思考の癖と相談するしかない。