なんとも禅問答のような記事があった。
大阪府警は3日、昭和55年に失踪し警察庁が北朝鮮による拉致の可能性を排除できないとしていた60代女性=当時20代=を今年9月、国内で発見したと発表した。
発見場所や失踪理由などは明らかにしていないが、身元確認を進め、女性が拉致や事件、事故に巻き込まれていなかったと判断した。
警察庁によると、女性の発見により、拉致の可能性を排除できない行方不明者は872人となった。
この記事を読んで最初は、発見された女性を横田めぐみさんと重ね合わせた印象で捉えた。
両親は生きているのか、今回の件をどう思っているのか?
失踪は本人の意思のみで起きたのだろうか?
どんな思いで生き続けていたのだろうか?
などと思いながら思ったのが、
記事には発見としか書いてないこと。
もしかしたら、生きた状態ではなく見つかったのか?
記事の書き方から見つかったのは60歳代の生きた女性だと思いがちだが、もしかしたら白骨でそのそばに身元に繋がる遺留品があったということかもしれない。
わたしたちは日常でさまざまな情報に接している。
それらの情報には、分かりやすく詳しく書いてあるものもある、その場合には、丁寧にじっくり読みさえすれば誤解が生じる余地は少ない。
誤解が生じるとすれば読み手の読解力のせいだ。
しかし、丁寧にじっくり読んでも、いやじっくり読めば読むほど肝心なことが書かれてないということは少なくない。
こうなると、それは読み手のせいではなく書き手のせいになる。
外見で判断してはいけない、と言われる。
人に対して用いられる表現だが、情報にも当てはまる。
情報の外見の中でも、タイトルや見出しは、人間ならば顔やファッションや体型に相当するだろう、それしか見えないのだから最初は。
時間をかけると行動が見えてくるし、さらに時間をかけると持ってる価値観や考え方が見えてくる。
しかし、何事にも時間をかけたくないのが現代だとすると、
外見で判断したりされたりすることは避けられないのだ。
それと同時に、自分事として捉えた場合、その外見に反応する自分がいることになるのだが、それは自分の琴線に触れる何かがそこにあるからなのだ。
その理由は深掘りする価値があるかもしれない。