意図があろうとなかろうと、人間が表現してものはすべて情報となる、事件や事故ですら。
現代社会では、情報を伝える場合に写真や動画は必須。
それは、写真や動画はリアルを捉えているので嘘がつけないからであり、百聞は一見にしかずだから。
しかし、それだけでは不十分な面があるから文で補完する。
そんな時に、真実を意識してる場合と、都合の良い真実らしきものをでっち上げるいわゆるフェイクを意識するかで、同じ写真や動画が正反対の意味を持つこともある。
一方で、発信する側にはそれなりの意図があるにしても、それがどのように伝わろうが、どのように解釈されようが、全く構わないという場合もある、このような場合は情報は事実であっても解釈の多様性が許容されるのでアートや芸術の側に寄って行く。
アートや芸術は創作とも呼ばれる。
事実ではない創作という情報もあるが、事実ではないという意味ではフェイクなのだが、創作は一般的には事実ではないということが一言添えられてるか、最初から架空であり想像から生まれていることが明らか。
創作であろうがフェイクであろうが大事なことは、然もありなんというリアリティだ。
あるいは特殊なリアリティとしては、シュールレアリズムのように事実を超えたようなものもある。
女性(雌)男性(雄)のように、明確に違うものとして二つに分類されていたものの間にすらグラデーションが存在することが認識されるようになった。
事実とフェイクの間にも無限のグラデーションがあり、そんなグラデーションの上に存在するものがアートや芸術と呼ばれてるように感じる。
事実とフェイクの間には何があるのだろうかと考えていたら、そこには解釈の多様性があり、それらの一部が広範囲にアートや芸術と呼ばれているように思えてきた。
おもしろいのは、事実を『役に立つこと』、フェイクを『役に立たないこと』と置き換えても趣旨は損なわれないなと感じられること。
最近の日本では、役に立たないと思われがちな研究開発は、アートや芸術の側に寄っている存在だと思うと納得できる。
何かを考えるときには、白黒ハッキリつけることを考えるよりも、白と黒の間のグラデーションを考えた方が良い時代になっているのかもしれない。
結果、多数派は減って行くのだろう。