政界や芸能界はすっかり二世三世で溢れかえっている。
本来世襲である業界ならともかく、そうでない業界でも擬似世襲が目立つようになっている。
世襲に良い点があるとすると、身元が確実で、トラブルが起きた場合でも後処理や補償もリスクが小さい可能性が高いが、拗れた場合は大きく取り上げられるので火消しが不可能になるという大きなリスクも持ち合わせている。
二世三世の最大の良さが育ちの良さと業界のルールや人間関係を熟知してることだとすると、何の面白味もないがそのことが保険になってると考えると需要が高いことも理解できる、現代はそういう時代なのかもしれない。
元々は、育ちの良さが意味することとは家柄の良さだけで、それは親や先祖のおかげだけなのだが、そんな家柄が素晴らしい家系でも育ちの良さ格差が起きているかもしれない。
政治の世界の世襲は地盤・看板・鞄が受け継がれる。
Wikipediaでは三つのばんという意味で三バンとして取り上げられている。
分かりづらいのが鞄だが、これは資金のことで、昔は政治家が持ってるカバンの中には工作資金が詰め込まれていたからだろう。
一見世襲とは縁がなさそうな一般人の場合でも、この三バン的な価値観が現在では感じられる。
抽象的だが、三つ併せて『育ちが良さそう』がそれに当たるような気がする。
もちろん大前提として実力が大事というのは問われるが、それは一定水準をクリアすればそれ以上は問われないというような意味でだ。
その程度の実力があれば、育ちが勝負の決め手になるのだ。
育ちの良さには性格の良さは必須で、育ちが良くて性格も良ければ残念ながら外見も悪くないのだ。
わざわざ名前は上げないが、家柄が良いはずの代々政治家の家系や世襲の伝統芸能の世界にも下品な人は少なくないのを見ると、育ちの良さは家柄だけでは決定されないのだ。
実力のみでそれなりに成功を獲得していたはずのスポーツ選手が私生活の乱れから大きく評価を落とすことが最近少なくないが、これらも十把一絡げに『育ちが悪いから一流になりきれない』で片付けられそうだ。
だからこそプロ野球界では大谷翔平さんがダントツで光り輝くのだ。
実力の世界でも、実力があるだけでは賞賛は付いて来ない時代なのだ。
三つ子の魂百までという諺を信じるならば、育ちの良さは親の育て方に大きく依存するはず。
自分のようになれという思いを込めて育てられるのか、あるいは自分のようになるなという思いが込められるのかはともかくとして。
そんな育てられ方と成長に伴う自我の合わせ技の結果が、自分がよく知ってるはずの自分自身を作り上げるのだ。
『育ちは良かったのか?』と問われるまでもなく答えは一目瞭然のはず。
改めて考えると、誇らし気な気持ちになれる人と、少しホッとできる人と、落ち込んでしまう人にはっきり分かれるはずだ。
落ち込んでしまう人が多いことは言うまでもないだろう。