違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

悩み方にも上手下手がある

現代では何事でも、正しいとされることには証拠やエビデンスが求められることを当然だと考えることが増えている。

 

世の中には証拠やエビデンスがあることよりも、ないものの方が多い、ただ多いだけでなく遥かに多い。

 

 

 

一番不思議なのは人間。

 

 

現象や事件の謎を解き明かそうとしてもそれが容易ではない場合、直接は結び付かないことが原因ではと考え始める。

 

人間は無意識のうちに垂直思考に囚われ、目に見えるもの同士が結びついてると答えを求めがちだが、そんな時ほど水平思考という選択肢を忘れてはいけない。

 

 

 

そういうことは、風が吹けば桶屋が儲かると言われたり、バタフライ効果などと言われ、洋の東西を問わず昔からあるのだが、こういう発想を実際にする人はいつの時代も少数派。

 

 

 

いろいろな尺度を当てはめて、偏差値的にピンからキリまでに分類分布させられて位置付けられる人間だが、所詮起きて半畳寝て一畳の生き物に過ぎないという意味ではほとんど差はないのだ。

 

 

ほとんど同じはずなのに、生き方が違うと持ってる価値観に基づく垂直思考と水平思考の違いにも大きな差があるのかなと感じられるツイートがあった。

 

 

 

思考が垂直だ水平だというよりも、それ以前に身につけた価値観の違いに支配されがちなのだ。

 

 

 

人間は考える葦であるとパスカルは言ったが、考えるというよりも心配するの方が相応しそう。

 

 

心配する相手や対象が、具体的な場合の心配は、恐怖になる。

 

心配する相手や対象が、具体的でない場合の心配は、不安になる。

 

心配や不安や恐怖の違いがきちんと区別できると、そもそも心配してもしょうがないから気にするのをやめようと思うことができる。

 

垂直思考をした時に気になることは、悩みや苦しみになる。

 

それを水平思考に転じるだけで、生きることはかなり気楽になるということは少なくない。

 

 

またまたアメリカの話だが、次のツイートを読むと、価値観の違いが垂直思考や水平思考のあり方を根本的に変えているのかもと思える。

 

 

 

 

日本で、美容や健康の問題や悩みと位置付けられていることの多くは、本当は他人からあれこれ言われたくないという悩みや不満なのかもしれない、だとすると対人関係や人間関係の悩みになる。

 

 

日本は本音と建前が混在するダブルバインド社会なので、処世術として同調圧力を感知するセンサーが敏感になり、察したり、空気を読んだり、忖度したりが必要になるが、所詮本来あるべきコミュニケーションからかけ離れてるので歪な感性が身につく。

 

 

いち早く察したり気付いたりするという意識は、日本人の場合は主に人に向けられる。

 

結果、知ってる人の身に何があったんだろうかと知りたがる一方で、自分の身に起きた出来事を知り合いには知られたくないという気持ちが特に強くなるのかもしれない、特にネガティブなことほど、だから変化してない自分を演じようと、変化を悟られまいと一生懸命になるのだ。

 

自分の心配ごとを分析すると、心配の仕方の癖に気付けるかもしれない。

 

そのほとんどが、川の流れに逆らうようなものだとすれば、気付くだけで心は軽くなるかも。

 

悩みや心配には、その仕方に上手下手があるのだ。