先日オーシャンズという映画を見た。
今となっては古い映画かもしれないが新鮮だった。
きれいな映像で海の中の生態系を捉えた映画。
この映画の特徴は映像以外に、状況の説明や解説が少ないという点があげられる。
レビューを見ると、説明や解説が少ないことに不満を訴える声が少なくない中で、わたし自身はその点こそがこの映画の良いところだと感じていた。
目の前で起きてることに意味付けをするのは自分自身にならざるを得なくなるからだ。
海の中での生態系とは、弱肉強食であり食物連鎖を感じるものでありながらも共生や共存もあり、海洋生物同士の間で起きてると残酷だとか理不尽とは感じないが、そこに人間が介入すると印象はガラッと変わる。
最も印象に残っているのは、フカヒレを目的に捕獲されたサメが、目的のヒレを全部切り取られ、そのまま海に戻されるシーンだった。
尾びれを含めてすべてのヒレを切り取られたまま海に投げ込まれたサメは口をパクパクさせながら身を捩らせながら垂直に海底まで落ちるしかできないのだ、そして底に着いても口をパクパクさせて身を捩るだけで移動など全く出来ない。
これは弱肉強食ですらないなと感じた。
このシーンに対してどんな相応しい解説があるのだろうかと感じた。
捕鯨に対しては鯨がかわいそうと言うくせに。
あるのは理不尽だ。
しかし、これが人間の本質なのかもと思い当たると、日常に感じる不平不満など子供のダダと同類に過ぎない。
人間がフカヒレを獲るためにサメにやってることは、人間同士でだってやっている。
直接殺すということはしないし、してはいけない、そういうルールは作った上で、『社会的な死』に代表される『〇〇的な死』を相手に与えることを競いあっている、あらゆる分野で。
そんなことは嫌だと感じてる人もこのゲームの立派なプレイヤーの一人だから嘆いてもしょうがない。
人間が展開する弱肉強食にはセクハラやパワハラに代表される各種のハラスメントもある。
パワハラという言い方をするとせこいイメージが漂うが、これを権力と呼び換えると太刀打つのが困難な壁に感じられる。
最近ジャニーズのセクハラは、これまで悪い噂と無縁だった山下達郎竹内まりや夫妻にも飛び火し、一旦着火すると火種はずっと以前から燻っていたことが明るみに出ている。
まさに晩節を汚すだ。
ふと思ったのは、晩節を汚すなんていう生き方は、弱肉強食や食物連鎖からは決して連想できない生き方だということ。
こんな生き方は人間にしかできないのだ。
フカヒレのためにヒレを切り取られ海底でもがいてるサメと晩節を汚す生き方が脳裏で重なる。